この記事は、
西郷どん 第25話「生かされた命」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

愛加那との別れ

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吉之助は島民の皆から見送られ島を出た。

雪篷などは、『革命』の文字が書かれた旗を振り吉之助にエールを送ったほどだった。

twimg.com

そして、
沖永良部島を出た吉之助たちは
喜界島で新八を乗せ一路薩摩へ向かった。

その行程で嬉しいサプライズが起きた。

なんと、愛加那が会いに来たのだ。
信吾が気を利かせ大島に立ち寄らせたのだった。

愛加那は照れることなく熱烈に吉之助に愛を伝えた。

twimg.com

それに応えるよう吉之助も感謝の言葉を述べた。

「愛加那に謝らんにゃならんこつがある」
「おはんはおいに生きる力をくれた」
「こん両手では抱え切れんほどの幸せをおいに教えてくれた」
「じゃっどん…おいは菊池源吾にはなれんかった」
「すまん許してくいやんせ」

こうして、2人は別れていったのだった。

みずほ
@ha43zu
雪篷さあああああああああ〜
ツンデレの振り幅が愛おしかったぞ〜
また会う日まで。

  

2018-07-01 20:38:48

石田三成
@zibumitunari
関ヶ原のごとき速さで終わった薩英戦争より、愛加那の方に時間を割いているという事実

  

2018-07-01 20:40:25

ののまる
@nonomaru116
この3回目の愛加那との邂逅は史実で、かつ最後の別れになるんだよな……。

  

2018-07-01 20:41:20

しみず さるひこ
@bub_shimizu
ううむ。やはりドラマとしては悔しいかな面白い。NHKでやる日曜劇場、もしくは年末大型時代劇。

  

2018-07-01 20:45:05

福笑
@smile106uvu
ちなみに現在
沖永良部にフェリーで行くと18時間!

蒸気船だと
どのくらい時間がかかるんだ(震)

沖永良部。
海が綺麗だから是非来て欲しい

  

2018-07-01 20:40:16

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
安易に外国に屈しないという交渉の意味、更に大きな敵を設定して分裂していた藩の結束を高める、国父に対して発言力を増す、そしてその発言力で西郷を呼び戻す。一石で三鳥くらい落とす有能な一蔵どんです

  

2018-07-01 20:31:19

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西郷どん 第25話「生かされた命」感想

森人
@al4ou

今週のまとめ
・助からんと思ったらあっさりトドメ刺すサツマ人
・あれだけ盛り上げておいてアングロ=サツマ戦争全カット
・フランス革命とナポレオンを混同するサツマ人
・25話にして初めて吉之助がSEGODONと呼ばれる

  

2018-07-01 20:47:18

酔鏡仙
@suikyosen
島原の乱以来200年以上実戦してなかったくせに何故か当時世界最強の大英帝国東洋艦隊に真っ向から喧嘩売ったあげく旗艦スナイプして司令官以下ぶっ殺すわ潜って水中爆弾仕掛けようとするわ散々やらかして撃退成功しちゃったマジキチ戦闘民族薩摩隼人描かないのダメすぎるでしょ

  

2018-07-01 20:46:34

こざ
@kozaab
歴史的なとこを無視したら人間ドラマとしてよくできてると思う。歴史的なとこを無視したら

  

2018-07-01 20:45:47

闇コケシ
@m1203k
薩英戦争についての内容を、どうやら町田先生に丸投げするつもりらしい、斬新な大河ドラマ。

  

2018-07-01 20:43:29

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」25回目を拝見!本日は西郷の沖永良部の生活や召還を軸に、生麦事件と薩英戦争直前の城内の沸騰が描かれ、川口雪篷から「革命」を促され、そして愛加那との別れのクライマックスへ。史実はさておき、ドラマとしての盛り上がりを重視した構成でしたね(^^) 

  

2018-07-01 20:45:05

町田 明広
@machi82175302
今回のストーリーを追う前に、ここに至る経過を整理しておこう。文久2年(1862)6月、西郷隆盛は徳之島、村田新八は喜界島に流罪と沙汰され、西郷は7月2日に到着した。郷士格の島役人・琉仲為と懇意となり、その紹介で岡前にある松田勝伝方…

  

2018-07-01 20:45:46

町田 明広
@machi82175302
西郷は奄美大島から愛加那と2歳になった菊次郎、7月2日に産まれたばかりの菊子を呼び寄せ、8月26日、水入らずの対面を果たした。しかし、同日、沖永良部島に再遠島とし、昼夜を問わず番人を置き囲に召し込めるようにとの藩命が届いた。久光の…

  

2018-07-01 20:46:25

町田 明広
@machi82175302
西郷は、愛加那らと一夜を共にしただけで引き裂かれた。なお、同時に西郷の弟たちも罰せられ、知行高・家財は没収されている。西郷家全体が、西郷に連座したことになる。閏8月14日、西郷は沖永良部島に着き、和泊の海辺に急ごしらえされた獄舎に入れられた。

  

2018-07-01 20:46:51

町田 明広
@machi82175302
沖永良部の獄舎は、広さわずか4畳ほどで、戸や障子がなく風雨をしのぐことは叶わず、食事は極端な粗食で、塩以外の副食物はなかった。この劣悪極まりない環境下で、西郷は見る影もなくやせ衰えていったが、一言も不平を漏らさず、端然として罪に服していた。

  

2018-07-01 20:47:35

町田 明広
@machi82175302
島役人の土持政照は、西郷の姿勢に強く感銘を受けて、このままでは死ぬかもしれない西郷を何とか救いたいと考え、10月初め、拡大解釈をした上で、代官に「囲に召し込め」とは座敷牢ではないかと訴え、与人屋敷に座敷牢をこしらえる許可を得て、完成するまでの間、西郷を自宅に引き取った。

  

2018-07-01 20:48:13

町田 明広
@machi82175302
土持はできるだけ普請を遅らせて、その間、家族に西郷を献身的に介抱させた。こうして健康を取り戻した西郷は、土持と義兄弟の契りを交わした。西郷は土持のおかげで、まさに死ななくて済んだことになる。新しい獄舎では、「学者になりそうな塩梅」と語るほど、学問三昧の日々を過ごした。

  

2018-07-01 20:49:03

町田 明広
@machi82175302
島の知識人が西郷の許に参集し、様々な知識を西郷に伝授したが、中でも同じ流人の川口雪篷との出会いは画期をなした。川口は書と詩作に優れ、西郷はその影響を強く受けているが、それ以上に、陽明学や朱子学の窮理を議論し、古今の歴史について討論を繰り返したことが重要であった。

  

2018-07-01 20:49:35

町田 明広
@machi82175302
西郷は、流刑当初の過酷な境遇の下で、心身を追い詰めて思索を繰り返し、そこから解放されてからは、川口と交流する中で、その思索をより高度に磨きをかけた。その結果、天意に基づく為政者の役割への認識を深め、行動を伴う死生観を確立し、座右の銘となる「敬天愛人」を導き出した。

  

2018-07-01 20:50:43

町田 明広
@machi82175302
これ以降、西郷は久光に対して従順となり、目的の完遂のためには死を前提とした行動を採り、その妨げになるものは天意でないとの立場を貫く、確固とした政治理念を獲得した。ではここで、西郷が流刑になっていた間の政治動向について、触れておこう。

  

2018-07-01 20:51:02

町田 明広
@machi82175302
久光の率兵上京が倒幕のための義挙と信じ込んだ西国志士は上方に集まり、不穏な空気を生じさせたため、孝明天皇は久光の武力に期待し滞京を許した。寺田屋事件によって有馬新七等の過激な薩摩藩士を上意討ちとし、他藩の尊王志士も捕えるなど義挙計画を粉砕、天皇の絶大な信頼を勝ち得た。

  

2018-07-01 20:53:08

町田 明広
@machi82175302
その余波を駆って、勅使を供奉して江戸に乗り込み、幕府の人事改革、すなわち一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政治総裁職就任を実現した。しかし、久光が目論んでいたその先の自身の幕政参画は失敗に帰した。

  

2018-07-01 20:53:34

町田 明広
@machi82175302
久光一行が江戸から京都に向かう道中、イギリス商人を殺傷した生麦事件(文久2年8月21日)が起こった。その後、久光はイギリス艦隊による報復攻撃に備えるため、鹿児島から出ることはなかなか叶わず、中央政局からは距離を置かざるを得なかった。

  

2018-07-01 20:53:55

町田 明広
@machi82175302
そのため、要請された京都守護職(松平容保のみ就任)に就けず、また、藩論を航海遠略策から即時攘夷に転換した長州藩の暴走を阻止することができなかった。そして、文久3年(1863)7月2日、生麦事件が原因となった薩英戦争が勃発した。

  

2018-07-01 20:54:07

町田 明広
@machi82175302
薩摩藩が通商条約交渉を持ち出し、戦闘には及ばないと油断していた英国艦隊に損害を与えたものの、鹿児島は一面火の海になり、列強との力の差を痛感した久光は、イギリスとの講和を急いだ。講和談判の際、薩摩藩は軍艦購入などを持ちかけており、これを契機にイギリスと急接近を遂げた。

  

2018-07-01 20:56:35

町田 明広
@machi82175302
一方、中央政局では朝彦親王・会津藩と結んだ高崎正風らの策動で、八月十八日政変を起こし、三条実美ら即時攘夷派の廷臣および長州藩を京都から追放した。長州藩がいなくなった京都に乗り込んだ久光は、朝廷・幕府どちらからも絶大な信頼を勝ち取り、まさに人生のクライマックスを迎えた。

  

2018-07-01 20:56:49

町田 明広
@machi82175302
朝政参与を画策し、文久4年(1864、2月20日に元治元年と改元)正月に、一橋慶喜・松平春嶽・松平容保・山内容堂・伊達宗城らとともに任命された。いわゆる、参与会議である。あわせて、二条城での老中御用部屋入りを許され、久光は念願の幕政参画も実現した。

  

2018-07-01 20:57:08

町田 明広
@machi82175302
しかし、参与会議の実態は単なる朝議の諮問機関に過ぎず、横浜鎖港をめぐる対立などから、久光は慶喜と激しく対立し、老中御用部屋入りも形式に過ぎず、機密にあずかることは叶わなかった。なお、対立前の数か月、両者は超蜜月にあり、ドラマのように慶喜が久光を芋呼ばわりしていない。

  

2018-07-01 20:57:34

町田 明広
@machi82175302
久光は慶喜と対立し、しかも、孝明天皇が嫌う山階宮を還俗させようと、朝廷に無理強いをしたため、肝心の天皇とも疎遠になってしまった。長州藩に対する処罰問題も遅々として進まず、この状況に見切りをつけた久光は帰藩することになるが、西郷の召還はその直前にあたる。

  

2018-07-01 20:57:45

町田 明広
@machi82175302
本日のドラマの進行は激流だった。再来週、どこからスタートするか分からないが、文久2(1863)年後半から元治元年(1864)春まで、およそ2年間があっという間であったが、この間の将軍上洛、長州藩の攘夷実行、八月十八日政変、朝政参与(参与会議)などはもう出てこない??

  

2018-07-01 20:58:03

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