この記事は、
西郷どん 第31話「龍馬との約束」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

岩倉の言葉の意味を知る一蔵

各藩の代表が勢揃いする中、家茂が声を張った。

twimg.com

家茂「面を上げよ」
慶喜「皆の者よう聞け」
「畏れ多くも天子様よりお言葉を賜った」

「長州征伐の事である」
「長州征伐は日本国の重大事である」
「軽々しくしてはならぬとの事。我ら一同いま一度十分に話し合い改めて奏上致せとの事である。よいな!」
一同「はっ!」

つまり、この結果、長州征伐の勅命はすんでのところで食い止められたのだった。

会議を終えて一安心した吉之助と一蔵の元に一橋慶喜がやってきた。
吉之助と一蔵は膝をついた。

慶喜「お前が大久保か」
「はっ…」
「お前の働きは俺のところまでよう聞こえてくるぞ」
「ありがたき幸せにござりまする」

すると、慶喜は一蔵の前に文を落とした。

一蔵「これは…?」

岩倉から中川宮へ一蔵が届けた手紙だった。

慶喜「お前らの動きは筒抜けじゃ」
「岩倉とかいう貧乏公家とつるんだ事もな」

twimg.com

そして、

慶喜「薩賊がなりふり構わず朝敵と手を組むとはな」
「徳川の世をこれ以上汚すな」

twimg.com

そう警告したのだった。

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
西郷どん、大河ドラマとしてはちょっと要人同士のお喋り過多かも。実際には歴史だってそうダイナミックに動かなくてミーティングやお喋りで時代も組織も変わってくものだろうけど、それをドラマにしたいんだったらそれこそシン・ゴジラくらいの力量技量が必要。

  

2018-08-19 20:39:57

スポンサーリンク

吉之助の失態

旅籠へ戻ると、お虎が用件を伝えた。

「お帰りやす西郷はん」
「ああいまじゃった。」「部屋にお客さんが長い事お待ちどすえ」

客とは、坂本龍馬のことだった。
龍馬は怒り心頭という様子だった。

「西郷さん」
「わしはおまんを見誤っちょったようじゃのう」
「まさか約束をたがえて京に来ちゅうとはのう」
「わしも桂さんもず~っと下関で待っちょった」

twimg.com

吉之助「まさかおいの文は届いちょらんですか?」

実は文は海江田が勝手に判断して、届けなかったのだ。

「来たがは中岡だけじゃき」
「ないかあったんじゃろか…」
「西郷さん勘違いしたらいかんぜよ」
「たとえ文をよこしたとしてもそれで桂さんの気持ちが治まると思うちょったがかえ?」
「桂さんがどんな気持ちで西郷さんと会うと決められたがか…それが分からんかったがかえ?」

詰めてくる龍馬に対し、吉之助は詫たいと申し出た。ところが、

「おまんは信用も義理も人情も何もかも失うたぜよ」

twimg.com

そう言い捨てたのだった。
しばらく、あまりの失態に吉之助は涙した。

「おいはないをしちょっとじゃ…」
「ないごて桂殿の気持ちに応えんかった…!」

twimg.com

そう言って落ち込む吉之助に対し、一蔵が元気づけた。

「吉之助さぁは一度決めたらどげんしてでんやり遂げる」
「天が味方せん時はおいが味方してやる」

twimg.com

「一蔵どん…」
「チェスト~!」

twimg.com

いが(たろに)
@iga_iganao
せごさが来なかったので桂さん激おこ、龍馬と中岡さんがワンチャン!もう一回だけ!!桂さんワンチャン!!とお願いしたのは史実です

  

2018-08-19 20:38:51

azukKi
@azukki_
一蔵どん「チェストーー!」(訳:アイラブユー)西郷どん「チェストーー!」(そのままの意味)

  

2018-08-19 20:43:55

こまつな
@bb_kmtn
それにしても「天が味方しない時には俺が味方してやる」(訳)って、すごい殺し文句じゃないのよ。一蔵さん、やっぱり正妻だわ(そのできた妻にいずれ殺されると思うと、もうどうしていいかわかんないな!)

  

2018-08-19 20:51:05

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
気分屋の男を宥め褒め意思決定を上手く誘導し、才気走ったところは一切見せずに根回しし、よそ者に対する警戒心は強め、夫が弱気の時には絶妙におだて叱咤し動かす。中園さんの筆だと、昔ながらの鹿児島の女のメソッドが大久保さぁの中に一番生き生きと描かれてるの何とも興味深いです。

  

2018-08-19 20:43:08

スポンサーリンク

西郷どん 第31話の感想

天河真嗣@スーパイ・サーキット連載
@tenkawa_shinji
本日の被害者:海江田(西郷キレイキレイ要員)

  

2018-08-19 20:43:54

スキンヘッドマン@JUNKY
@skinheadman_316
小栗くんで普通に坂本龍馬の大河見たいレベル

  

2018-08-19 20:44:20

ルルフ
@hervorruf
あっ亀山社中が紀行で触れられた
あかん、この大河も紀行が史実本編に…

  

2018-08-19 20:44:59

まとめ管理人
@1059kanri
やっぱり西郷どんは、基本的に司馬遼太郎の幕末物の二次創作なんだと思う

  

2018-08-19 20:47:21

だらり
@dan_dandon_don
中岡慎太郎とか小松帯刀とか、めちゃくちゃ重要な動きしてた人たちの手柄が全部龍馬とか吉之助とか一蔵とかの主要メンバーに集約されてるの、ドラマだから多少仕方ないとは思うんだけど、なんかこうモヤモヤするんだよな… 

  

2018-08-19 20:49:49

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」31回目を拝見!本日は歴史上の人物を素材にしたザ・ドラマという感じでした。物語としては、面白い展開でした!今回は、私の研究成果をもとに、同時期の薩長関係を軸にまとめてみました。

  

2018-08-19 20:45:19

町田 明広
@machi82175302
慶應元年(1865)5月16日に至り、征夷大将軍徳川家茂は長州再征のため、陸路江戸城を進発した。その一報が鹿児島にもたらされると、中央政局に見切りをつけ、小松・西郷・大久保の全員が帰藩していた薩摩藩においても対応を検討することになった。

  

2018-08-19 20:46:03

町田 明広
@machi82175302
当時の薩摩藩の方針は、長州再征後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、久光は藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し始めており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという抗幕志向を明確にしていた。

  

2018-08-19 20:46:19

町田 明広
@machi82175302
西郷は、「弥発足の様子自ら禍を迎え候と申すべく、幕威を張るどころの事にては御座ある間敷、是より天下の動乱と罷り成り、徳川氏の衰運此の時と存じ奉り候」(小松帯刀宛、閏5月5日)と、家茂の進発が天下動乱を招き、将軍家の没落に繋がると指摘する。

  

2018-08-19 20:46:37

町田 明広
@machi82175302
そして、西郷は大坂城での滞在は1年が限度であろうとの見通しを示し、今回の進発は抗幕体制構築にプラスになるとの見込を述べた。久光は大久保を上京させ、取り敢えず情勢探索と長州再征を阻止する周旋を行わせることにした。

  

2018-08-19 20:46:57

町田 明広
@machi82175302
一方で、小松・大久保・西郷が不在の京都では、将軍家の進発にあたって、岩下方平らの在京要路は大きな不安を抱いていた。そのため、5月24日、岩下は帰藩して小松・西郷らの上京を促すため離京したが、土佐藩浪士の中岡慎太郎・土方楠左衛門らを同伴した。

  

2018-08-19 20:48:43

町田 明広
@machi82175302
中岡慎太郎らは、上京の途次に西郷を下関に立寄らせ、桂小五郎との会談を実現し、薩長融和に向けた契機としたいと岩下方平らに迫り賛同を得た。しかし、岩下の帰藩目的は、あくまでも将軍進発に対応するための小松・西郷らの上京であり、どこまで真摯に中岡らの申出を受けたかは疑問である。

  

2018-08-19 20:49:19

町田 明広
@machi82175302
そもそも、岩下方平らは中岡慎太郎らの提案を許可できる立場になく、真摯に受け止めたとは言い難い。結果として、久光および小松帯刀は西郷派遣を認めたものの、薩摩藩は積極的な周旋を行う積りなど毛頭なかったのだ。

  

2018-08-19 20:50:10

町田 明広
@machi82175302
西郷派遣は先に上京した大久保からの書簡による懇請に応えたとされるが、その通説は根拠がなく、そもそも、この大久保書簡は見当たらない。更に閏5月18日、西郷が佐賀関に到着した際、大久保から至急上京を求める書簡に接したため、木戸と会談することをキャンセルしたとする通説も疑わしい。

  

2018-08-19 20:50:45

町田 明広
@machi82175302
実はその書簡も、見当たらない💦 

  

2018-08-19 20:51:21

町田 明広
@machi82175302
中岡慎太郎から西郷に、桂小五郎との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかった。つまり、最初から西郷は木戸と会見する意向はなく、予定通り京都に向かったものであろう。

  

2018-08-19 20:51:35

町田 明広
@machi82175302
いわゆる、この「西郷すっぽかし事件」について、西郷・桂会見は中岡慎太郎と土方楠左衛門が勇み足的に計画して進めたものであり、確かに薩摩藩は支藩である岩国藩を通して長州藩への接近を図りつつあったものの、長州藩宗藩そのものに対しては、功山寺挙兵以後の情報にも乏しかった。

  

2018-08-19 20:53:16

町田 明広
@machi82175302
長州藩の事情が皆目分からない薩摩藩にとって、慶応元年のこの段階で、とても積極的にアプローチする段階ではなかった。ましてや、下関に薩摩藩の正式な使者として西郷を送り込むことは憚れたであろう。

  

2018-08-19 20:53:33

町田 明広
@machi82175302
一方、桂小五郎は薩摩藩との連携を模索し始めていただけに、大きな期待があったことは間違いない。しかし、薩摩藩との接触が宗藩として全くないこの段階で、西郷がいきなり藩内に乗り込んでくることに対して、桂が半信半疑であったことも想像に難くない。

  

2018-08-19 20:54:48

町田 明広
@machi82175302
ましてや、その情報源が五卿の従者に過ぎない土方楠左衛門であり、木戸が期待をしたことは事実であるが、どの程度この情報を信じていたかについては疑問である。

  

2018-08-19 20:55:06

町田 明広
@machi82175302
なお、西郷に梯子を外された桂小五郎が激怒したとされるが、これは土方楠左衛門の明治以降の後日談でしか確認できず、これもどこまでが事実であるかは断定できない。もちろん、失望はしたであろうが。。

  

2018-08-19 20:55:22

町田 明広
@machi82175302
こうした薩長間の仲を取り持った存在として、坂本龍馬が登場する。その背景として、薩摩藩の海軍は薩英戦争や長崎丸事件によって壊滅的なダメージを受けており、この時期、軍艦は手に入れたものの、乗組員の不足解消にはほど遠い状態が続いた。

  

2018-08-19 20:56:03

町田 明広
@machi82175302
小松帯刀と西郷は4月22日に退京し、藩船胡蝶丸で25日に大坂を発して5月1日に鹿児島に帰藩した時、坂本龍馬を同行している。龍馬がこの時、鹿児島のどこに滞在していたかは分からない。なお、龍馬は久光に謁見はしていない。しているのは、近藤長次郎。

  

2018-08-19 20:57:28

町田 明広
@machi82175302
ここで白羽の矢が立ったのが、勝海舟の門下生である土佐藩脱藩浪士グループ。このメンバーの中で、龍馬のみ別行動を取ることになる。龍馬は長州藩士とも交流があり、しかも、この間に行動を共にしたことから、小松・西郷が政治的周旋を龍馬に任せることが可能であると判断したものであろう。

  

2018-08-19 20:58:11

町田 明広
@machi82175302
西郷らは龍馬に対し、薩摩藩が抗幕体制を採るにあたって、長州藩をパートナーにする意思があることを申し含めた上で、長州藩への情勢探索に派遣した。薩摩藩に仲間と共に庇護されている龍馬が、薩摩藩の要請を了解することは至極当然である。

  

2018-08-19 20:59:09

町田 明広
@machi82175302
龍馬が薩長融和に尽力するのは、薩摩藩の意向に沿った周旋活動に他ならないのだ。ここに、薩摩藩士・龍馬としての履歴がスタートする。その龍馬の行動をサポートし、藩要路との連絡掛になったのが西郷であった。

  

2018-08-19 20:59:19

町田 明広
@machi82175302
慶応元年5月16日、龍馬は鹿児島を出発して23日に太宰府に至り、翌日には三条実美ら五卿に謁見した。これは、西郷が周到に用意した筋書きであり、長州藩潜入のための手引きを期待したものであった。なお、龍馬は鹿児島出発時には、桂小五郎が長州藩に戻っていたことを知らなかった。

  

2018-08-19 21:01:49

町田 明広
@machi82175302
西郷の作戦通り、龍馬は五卿従者の手引きにより閏5月1日に下関に至り、6日に桂小五郎と会見に及んだ。この時、先述した「西郷すっぽかし事件」があったものの、桂は龍馬から薩摩藩の抗幕姿勢を確認することが叶い、薩長融和に向けた第一歩となった。

  

2018-08-19 21:02:05

町田 明広
@machi82175302
薩長融和に向けた次のステップは、長州藩の軍需品(銃・軍艦)購入にかかわる薩摩藩の協力、いわゆる名義貸しである。そもそも、長州藩は大村益次郎を中心に再軍備を推し進めようとしていたが、何分朝敵であったため、軍需品購入は至難の業であった。

  

2018-08-19 21:02:21

町田 明広
@machi82175302
当然、藩政の中心に返り咲いた木戸にとっても切実な問題であった。桂小五郎は何とか軍需品の調達を図るべく、薩摩藩の名義貸しに期待し、龍馬と中岡慎太郎にその斡旋を依頼したことが事の発端で、長州藩から持ち出された話であった。

  

2018-08-19 21:03:02

町田 明広
@machi82175302
しかし、木戸は藩庁のあった山口からなかなか離れることは叶わず、後事は井上馨・伊藤博文に託された。伊藤からも龍馬に対し、軍艦の購入での薩摩藩への名義借りを依頼され、龍馬・中岡慎太郎は承諾している。

  

2018-08-19 21:03:30

町田 明広
@machi82175302
通説では、龍馬らのこの後の上京は西郷から名義貸しの承諾を得ることであり、その周旋は成功したとされている。しかし、龍馬は伊藤博文の依頼の有無にかかわらず、上京して長州藩の情勢探索の結果を、西郷に報告する必要があった。

  

2018-08-19 21:04:21

町田 明広
@machi82175302
6月24日、龍馬らは京都の薩摩藩邸で西郷と会見したが、その内容は実ははっきりせず、その場で名義貸しの何らかの交渉があったのかどうかも分からない。仮にあったとしても、決定権がない西郷が、明確な回答ができなかったことは疑いがない。

  

2018-08-19 21:04:38

町田 明広
@machi82175302
龍馬らが本件で十分に周旋したとは考え難く、どの程度名義借りについての成算があったのか、かつ当初から本腰を入れて周旋する意思があったのかははなはだ疑問である。名義借りの画期となったのは、7月21日に長崎において、井上馨・伊藤博文による小松帯刀への直談判であった。

  

2018-08-19 21:05:51

町田 明広
@machi82175302
小松帯刀には、幕府の嫌疑を避ける態度は全く見受けられず、今後も力の及ぶ限り、長州藩のために尽力すると明言して、あっさりと名義貸しを認めたため、グラバーと交渉して武器(銃)はほぼ残らず手に入れることが叶った。

  

2018-08-19 21:07:35

町田 明広
@machi82175302
そして、軍艦についても、意外にも小松帯刀の同意を簡単に取り付けることができた。しかも、井上馨は小松帯刀に請われて鹿児島に行き、藩要路と会談を重ね、これまでの両藩間の疎隔を融和し、皇国のために薩長連携が必要であるとの意見で一致した。

  

2018-08-19 21:07:50

スポンサーリンク