この記事は、
西郷どん 第33話「糸の誓い」感想・実況の5ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

糸の勇気

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西郷家では不安げな表情で糸が帰りを待っていた。
そこへ吉之助が元気な姿で帰ってきたのだ。
糸は、それだけ確認すると、そそくさと部屋へ戻った。


夜半、寝室で吉之助と糸は向き合った。

「ないを怒っちょっとな?」
「怒っちょらんです」
「すまんかったのう心配かけて」
「パークス殿とは腹を割って話し合って分かってもらえた。もう大丈夫じゃ」

すると、意を決して糸は言った。

「私も腹を割って話したかこっがあいもす」
「ないな?」

twimg.com

「愛加那さぁはどげん御方でしたか?」

糸の真っ直ぐな目に吉之助は応えた。

「おいは一度死んだ人間じゃ」
「そいを分かってくいやい」
「はい」

「愛加那はおいを再び生かしてくれた」
「愛加那がおらんかったらおいの心は今も死んだままじゃった」
「愛加那はそげな女子じゃ」

この言葉に糸は理解を示した。

「恥ずかしか」
「そげん大切な御方に私は嫉妬しちょった」
「じゃっで旦那さぁに聞く勇気が出んかった」
「いや…おいが悪か。今までちゃんと話さんですまんかった」

そうして吉之助は糸を抱き寄せたのだった。
2人の絆はこれまで以上に深まった様子であった。

秋になり、再び吉之助は京に登ることになった。
すると、琴が糸を促した。

twimg.com

糸「実は…子を授かりもした」

糸の言葉を聞いた吉之助は涙を流して喜んだ。

「こん子と共に待っちょいもす」
「旦那さぁチェスト気張れ」
「行ってくっでのう」

twimg.com

三沢 ♡ようこ
@2251_Mai
糸どん お子が出来た😆🙌
(下手な鉄砲が・・・🙊🙊🙊)
いや おめでとう!糸どん㊗️

  

2018-09-02 20:41:07

仙人掌
@longjie29
その女の「子供できた」は見切り発車の可能性あり、気をつけろ!

  

2018-09-02 20:51:13

東区の人
@Higashikunohito
最近…西田敏行さん(語り)、決め台詞取られっぱなし♪

  

2018-09-02 20:41:13

Watanabe
@nabe1975
ナレーションが西田敏行なので「合体!」とやるかと

  

2018-09-02 20:41:21

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
「糸どん。こっちへ来んか」このセリフと、衽の短い着物からチラ見せの太ももと、吹き消す灯の三点セットでセクシー大爆発の鈴木亮平さん…こういう瞬発力の凄さが中園脚本…(パークスとの交渉場面の粗さとの落差すっご…)

  

2018-09-02 20:42:12

こまつな
@bb_kmtn
何となく距離があった糸さんとちゃんと心を通わせて、名実ともに夫婦になるいいシーンなのに、子が「ふんどし!今ふんどし見えた!?」と大騒ぎしていた(私もキャーって思ったけどっ)

  

2018-09-02 20:50:18

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西郷どん 第33話「糸の誓い」感想

もょもと
@ddddddddddddd_n
お龍は「ヘタな鉄砲」と言ってたけど、ヘタな鉄砲どころか精密なスナイパーライフルでしたね…

  

2018-09-02 20:42:19

たこら
@tacora1003
ゲスな言い方で申し訳ないが、吉之助さぁの繁殖力?妊娠させ力?がものすごい威力😝

  

2018-09-02 20:42:41

EMI@撤退
@emk_oldrose
徳川慶喜を全肯定してるわけじゃないけど(わりとアレコレやらかしてる人だとは思ってる)あっち側の事情や信条を描かずに「悪だから倒します」って大河ドラマとして最低だよ。ああ事情はありましたねそういえば「皆おれを殺そうとしてる誰も信じられない」みたいな? 

  

2018-09-02 20:49:41

Hiromi
@hiromi_lievre
糸さぁはお龍さんみたいに旦那さんについて行きたいのね。そうだなと分かるのは、子供の頃に男の子に混じってついて行ったから。
そしてお龍さんの男装から、子供の頃の糸さぁの男装を思い出した吉之助に、ああ覚えていてくれたんだと嬉しさを滲ませて。
子供時代の描写が生きた回だった。

  

2018-09-02 21:13:33

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」33回目を拝見!龍馬が襲撃された寺田屋事件から幕長戦争までが描かれた。アーネスト・サトウと寺島宗則の通訳掛け合いが絶妙だった(^^) 屈託がないお龍もよかったです。学会でお世話になる刑部芳則さんのお名前、洋装・軍装考証で発見!妙に興奮(笑) 

  

2018-09-02 20:44:44

町田 明広
@machi82175302
まずは、寺田屋事件について。慶応2年(1866)1月23日の夜、龍馬は三吉慎蔵に「小松・木戸覚書」に至る顛末を語り、「王道回復」を祝して盃を傾け、翌朝、上京のため仮眠を取っていた午前2時ころ、龍馬の妻・龍(お龍)が階上に駆け上がり…

  

2018-09-02 20:45:48

町田 明広
@machi82175302
捕り手は伏見奉行の林忠交(肥後守)配下の幕吏で京都所司代松平定敬の命によった。捕り手の人数は定かではないが、龍馬自身は木戸に対し、与力同心20名ほどであった伝えている。取り囲む捕吏も入れると、最低でもこの倍以上であったことは容易に察しができるが、それにしても物々しい。

  

2018-09-02 20:46:01

町田 明広
@machi82175302
踏み込まれた龍馬はピストルで、また三吉は槍で応戦し、数名の死傷者が出たが、詳細は不明である。龍馬自身は木戸孝允に1人を射殺したと告げている。いずれにしろ、死者が出た事実は龍馬を幕府のお尋ね者とする格好の口実となり、龍馬の人生を左右することになる。

  

2018-09-02 20:47:20

町田 明広
@machi82175302
龍馬はピストルを両手で構えた手先を斬りつけられ、両手に深手を負ってしまい、戦闘不能に陥った。三吉が捕り手目がけて突撃をしようとするのを押しとどめ、龍馬らは相手方に死者が出て怯んだすきに屋外に脱出し、捕吏を避けつつ村上町川岸の材木納屋に逃げ込んだ。

  

2018-09-02 20:47:44

町田 明広
@machi82175302
龍馬が思いの外、重症のため、三吉はここで腹を斬ろうと龍馬に迫った。しかし、「死は覚悟の事なれば、君は是より薩邸に走附け、若し途に於て敵人に遇はゝ必死夫迄なり、僕も亦だ此処にて死せんのみ、時既に暁なれは猶予六ヶ敷」と龍馬に諭され、薩摩藩伏見藩邸に応援を求める賭けに出た。

  

2018-09-02 20:48:18

町田 明広
@machi82175302
三吉が藩邸に到着したところ、お龍が既に異変を報じており、三好は救出に向けて準備をしていた大山彦八らを案内し、ようやく龍馬は虎口を脱した。なお、龍馬らは2月1日に至り、吉井友実に率いられた薩摩藩兵一小隊に護衛されて二本松藩邸に移動した 

  

2018-09-02 20:49:10

町田 明広
@machi82175302
次にこの期の薩摩藩の方針を確認しておこう。第一次長州征伐後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、薩摩藩・島津久光は藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指しており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという抗幕志向を明確にしていた。

  

2018-09-02 20:51:35

町田 明広
@machi82175302
一方で、薩摩藩・島津久光は武力を伴わない外交権の朝廷への移行による事実上の幕府打倒、つまり幕府を廃する「廃幕」を企図していた。慶応期の薩摩藩の動向において、これらの政略を無視することはできない。西郷隆盛もこの藩是に従った。

  

2018-09-02 20:51:47

町田 明広
@machi82175302
慶応2年(1866)1月、「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)が成立した。先週は本件についてツイートができなかったが、年内刊行予定の拙著『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(仮タイトル、人文書院)でこのあたり、詳しく述べますので、乞うご期待!

  

2018-09-02 20:52:09

町田 明広
@machi82175302
慶応2年(1866)3月10日に西郷は小松帯刀、桂久武、坂本龍馬らとともに鹿児島に戻った。これは薩摩藩の中央政局から距離を置くとの基本方針に則ったものであるが、遅々として進んでいない藩政改革の推進を図るためでもあった。龍馬は傷を癒し、ほとぼりが冷めるまで潜伏。 

  

2018-09-02 20:54:07

町田 明広
@machi82175302
西郷は、軍制改革を中心に大いに貢献したため、慶応2年(1866)9月には大目付・役料米200石・陸軍掛に任じられ、さらに、家老同様の扱いで家老座への出席を命じられた。短期間での大出世であり、西郷は名実ともに藩政の中枢に座ることにな…

  

2018-09-02 20:54:23

町田 明広
@machi82175302
この間の薩摩藩におけるトピックとしては、本日描かれた薩英親善の推進があった。薩摩藩にとって、「小松・木戸覚書」の成立による薩長融和が国内的な同盟関係と規定すると、薩英融和は対外的な同盟関係と位置付けられる。

  

2018-09-02 20:57:23

町田 明広
@machi82175302
薩摩藩は、長州藩とイギリスとの友好関係を基軸にして、廃幕運動を展開することになるが、イギリスとの友好関係の構築は、文久3年(1863)10月に横浜で行われた薩英戦争の講和談判を起点とする。

  

2018-09-02 20:57:41

町田 明広
@machi82175302
この席上で、膠着した交渉の打開を図った起死回生の一策として、薩摩藩は戦艦や武器の調達を依頼し、また留学生の派遣を打診している。そのあまりに現実的で柔軟な発想の転換には驚くばかりであるが、それらはいずれも実現し、薩英間は急速に接近した。

  

2018-09-02 20:57:55

町田 明広
@machi82175302
留学生15名(薩摩スチューデント)については、慶応元年(1865)5月、使節4名とともにロンドンに到着した。使節には寺島宗則と五代友厚がおり、その使命には薩摩藩を始めとする大名領の港を外国に開き、そこで自由に交易できるようにイギリス政府に協力を求めることも含まれた。

  

2018-09-02 20:58:14

町田 明広
@machi82175302
こうした中で、友好関係に水を差すような事案が発生した。慶応元年(1865)9月、パークスら英仏蘭米の代表は大坂・兵庫の早期開市・開港、通商条約の勅許を要求するため、兵庫沖に艦隊を率いて来航した。将軍家茂も大坂に滞在しており、この機会を捉えたのだ。

  

2018-09-02 20:58:39

町田 明広
@machi82175302
これを受け、薩摩藩の京都留守居・内田政風が朝廷に対し、兵庫開港の不可を述べ、諸侯を召集してその開否を衆議で決定すべきであり、もし外国艦隊が不法な行為に出た場合は、率先して在京藩兵が撃攘すると朝廷に申し出た。

  

2018-09-02 20:58:56

町田 明広
@machi82175302
こうした薩摩藩の過激な言動は、朝廷や幕府の嫌疑はもちろんのこと、その思惑を遥かに超えて、イギリスなどの外国勢力にも疑惑の目を向けられることになり、これ以降の大きな難問に発展した。

  

2018-09-02 20:59:13

町田 明広
@machi82175302
つまり、パークスからも嫌疑をかけられたため、薩摩藩としては大至急、その誤解を解いて薩英関係の修復を図らざるを得なくなった。その切り札として、パークスの鹿児島への招待が計画された。パークスから望んだとする説もあるが、薩摩藩としては自らが望んだという立場は憚られた。

  

2018-09-02 21:01:08

町田 明広
@machi82175302
慶応2年(1866)6月16日、パークスは鹿児島に入港し、21日に離れるまでの間、藩主忠義が旗艦にパークスを訪ねたり、久光・忠義父子がパークスらを磯邸で饗応したり、双方の軍事演習を見学するなどの友好的な儀礼を尽した。猛烈なご馳走攻…

  

2018-09-02 21:03:40

町田 明広
@machi82175302
西郷がパークスと会談したことは極めて意義深いものであった。西郷はイギリスの嫌疑について、藩士を勅使の伴として乗り込ませ回答期限の引き延ばしを図り、その間に諸侯を上京させて会議を開くことで、外交権を幕府から朝廷に移管させる目論見であったと説明し、パークスの理解を得た。

  

2018-09-02 21:04:11

町田 明広
@machi82175302
さらに、西郷はパークスに対し、朝廷から指名された5ないし6藩の諸侯が外交を掌り、兵庫開港後の関税は朝廷に納め、西洋諸国と普遍的な条約を結べば、その時初めて信義で結ばれた関係を構築できるとつけ加えた。

  

2018-09-02 21:04:23

町田 明広
@machi82175302
一方、パークスは将軍が大君と称することへ疑義を唱え、日本においては天皇と将軍が並び立っているが、外国では決してあり得ないことである。いずれ、国王はどちらかに定め、唯一の存在にしなければならないと主張した。

  

2018-09-02 21:04:37

町田 明広
@machi82175302
この会談を通じて、西郷は条約勅許時の嫌疑を晴らしたばかりでなく、十分に薩摩藩の抗幕政略をパークスに理解させ、賛同させることに成功した。しかも、パークスが幕府から朝廷への外交権の移管に賛意を持っていることを確認でき、上首尾な会談となった。

  

2018-09-02 21:04:53

町田 明広
@machi82175302
西郷・パークス会談によって、薩摩藩が今後の周旋活動への安堵感と自信を得たことは極めて重要であった。個人的に興奮したのは、薩摩スチューデントの一員でロンドンから帰国したばかりの寺島宗則が登場したこと。明治初期の外務卿です(^^) 

  

2018-09-02 21:05:20

町田 明広
@machi82175302
さて、この間の政治状況についても、触れておこう。薩摩藩は長州再征に出兵しない方針をとうに決めていたが、征討に踏み込まざるを得なくなった幕府は、再三にわたって、薩摩藩に対して出兵を要請した。

  

2018-09-02 21:07:29

町田 明広
@machi82175302
慶応2年(1866)4月、大久保利通は老中板倉勝静に対し、内乱に発展するとして征長の非を論じて、あくまでも出兵拒否を押し通した。こうした中で、6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃が始まり、ここに第二次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。ドラマの展開通り。

  

2018-09-02 21:07:47

町田 明広
@machi82175302
幕府は、大村益次郎による軍政改革が浸透し、その一環の散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗を喫した。そもそも、幕府軍の主力は1年以上に及ぶ大坂滞陣に倦んでおり、しかも、病気も蔓延して一向に士気は上がらなかった。

  

2018-09-02 21:09:13

町田 明広
@machi82175302
さらに、薩摩藩を始めとする諸藩の出兵拒否にあうなど、負の連鎖を止めることはできず、戦う前から苦戦は必至だった。追い打ちをかけるように、7月20日に将軍家茂が大坂城で急逝してしまった。

  

2018-09-02 21:09:28

町田 明広
@machi82175302
家茂が急逝した同日、久光・忠義父子は征長反対の建白書を提出し、寛大の詔を下して征長の兵を解き、その後に天下の公議を尽くして大いに政体を更新し、中興の功業を遂げるための政治変革を求めた。

  

2018-09-02 21:10:19

町田 明広
@machi82175302
久光・忠義父子からの建議は、徳川宗家を継承した一橋慶喜の尽力によって朝議では退けられ、孝明天皇によって戦争の継続が沙汰された。慶喜は勝てると踏んだのか、自ら出陣を請い、やる気満々であった。

  

2018-09-02 21:10:39

町田 明広
@machi82175302
しかし、長州再征の継続に意欲を見せていた慶喜であったが、九州方面での敗報が届くと手の平を反し、8月20日に長州征討の止戦の勅命を得て、同時に諸大名を召集し天下公論で国事を決める姿勢を示した。このあたりから、会津藩は慶喜の妥協的政策…

  

2018-09-02 21:11:10

町田 明広
@machi82175302
慶喜は徳川宗家の家督を相続したものの、実は手に入れたい将軍職は固持した。慶喜は文久3年以降、江戸に居らずに在京し続けており、常に江戸幕閣から嫌疑をかけられていたため、諸侯に推される形で将軍に就任しようとタイミングを計っていたのだ。

  

2018-09-02 21:11:29

町田 明広
@machi82175302
一方、大久保を中心とする在京要路は諸侯上洛の朝命を利用して、この将軍空位期に将軍職を廃止し、諸侯会議を実現する好機ととらえた。しかし、久光に上洛を要請したものの、時期尚早として見送られてしまった。

  

2018-09-02 21:11:42

町田 明広
@machi82175302
その代わりに、藩政改革にあたっていた小松・西郷が10月25日に上京した。この間、孝明天皇から厚い信頼を得ていた慶喜は、着々と準備を進め、12月5日、在京諸侯の推戴を得たとして将軍に就任した。ここでも、薩摩藩は慶喜に敗れたのだ。

  

2018-09-02 21:11:54

町田 明広
@machi82175302
しかし、政局運営を安定させたい慶喜は、方針転換を図り、有力諸侯との連携を模索し始めた。よって、小松・西郷らは方針を変えて、当面は朝廷工作を控えて直接幕府と交渉することを決めた。

  

2018-09-02 21:12:30

町田 明広
@machi82175302
そこに、突然の不幸が慶喜を襲う。最大の庇護者である孝明天皇が、天然痘で12月25日に薨去されたのだ。当時から毒殺説がささやかれていたが、現在は否定され、病死とされている。

  

2018-09-02 21:12:41

町田 明広
@machi82175302
いずれにしろ、慶喜は諸侯との連携をますます意識し、側近を小松の許にしばしば派遣して、明治天皇の践祚を機に行われた大赦や五卿の京都復帰などについて、話し合いが持たれるようになった。おっと、話が進み過ぎた💦 

  

2018-09-02 21:12:58

町田 明広
@machi82175302
そう言えば、20年位前、前任校の学園祭に来ていたパークス役のセイン・カミュさんとばったりエレベーター前で出くわした。超痩せていて、足首がルパン3世だった!

  

2018-09-02 21:15:43

町田 明広
@machi82175302
井上聞多率いる長州藩軍!高杉晋作が今後出ないことが確定したか??それにしても、聞多か、今後の伏線かも。。

  

2018-09-02 21:16:03

nekotosafra
@nekotosafra2
アーネスト・サトウと寺島宗則さんの通訳合戦とか、町田先生のツイートにて確認できるのはありがたし。

  

2018-09-02 21:10:48

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