この記事は、
西郷どん 第36話「慶喜の首」感想・実況の5ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

西郷どん 第36話「慶喜の首」感想

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
今日の回は歴史が動いていることがわかったし押さえて欲しいポイントは押さえられてたしテンポも良く、個人的には久しぶりに面白いと感じる回でした。慶喜公の人物造形が極端な気がしてしまうけど。

  

2018-09-23 20:45:38

mia^ ^ฅ✧
@ngtasm
もうこんな戊辰戦争ならすっ飛ばしていいよ。

早く陸軍卿出して‼︎
村上さんの山縣が見たいッ‼︎
江藤と大隈も早く出せいッ‼︎😠

  

2018-09-23 20:45:41

みーこ🍀🛥🐟
@donkey_1103
久々登場の幾島 良かったわ
おばあさんっぽい動き
南野ちゃん上手かった

  

2018-09-23 20:47:52

スポンサーリンク

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」36回目を拝見!本日は鳥羽伏見の戦いがメインで、一気に江戸無血開城の直前まで行きましたね!とは言え、開城前に西郷は江戸城に入っていましたが(^^) 勝海舟の江戸っ子の啖呵が気持ちよかったかも。 

  

2018-09-23 20:46:05

町田 明広
@machi82175302
最初に、王政復古クーデター後の流れを振り返っておこう。取り敢えず、西郷の大胆な行動によって、あくまでも慶喜排除を目指す岩倉具視・西郷派が小御所会議で勝利したものの、旧幕府・慶喜を擁護する山内容堂・松平春嶽派の巻き返しは想像以上のものであった。

  

2018-09-23 20:47:11

町田 明広
@machi82175302
慶喜は山内容堂の巻き返し工作に期待し、また、会津藩の暴走を恐れ、そして態勢の挽回を図って二条城を後にして12月12日に大坂城に下った。慶喜は12月14日、助力を求めるためフランス公使ロッシュと会見した。

  

2018-09-23 20:47:23

町田 明広
@machi82175302
慶喜は12.9政変を非難し、天皇に対して新政府を承認しないように求めると主張した。16日にはロッシュの助言を踏まえ、慶喜はイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロイセン・イタリアの6国公使らを引見した。あくまでも日本国の主権者たる態度であった。

  

2018-09-23 20:47:36

町田 明広
@machi82175302
慶喜は6国公使に、大政奉還より王政復古に至る経緯を説明し、政変が不当であるとして内政不干渉を求め、旧幕府が通商条約を順守して外交を掌ることを言明した。慶喜は、旧幕府こそ日本の正当政府であると列強に認めさせることを狙ったのだ。

  

2018-09-23 20:47:58

町田 明広
@machi82175302
また、慶喜救済に賭けた山内容堂の活躍は、それまでの不誠実な容堂とは比べ物にならず、その尽力によって慶喜を議定に就任させ、辞官・納地もなし崩しにすることがほぼ確実になった。薩摩藩・西郷の敗北は、目前に迫っていた。ここで、結果として起死回生の出来事が江戸で起こった。

  

2018-09-23 20:48:15

町田 明広
@machi82175302
12月24日、老中稲葉正邦が襲撃決行を命令、庄内藩、出羽松山藩、上山藩、鯖江藩、岩槻藩に加え幕府陸海軍も動員した。幕府は軍目付を任命しており、「薩摩藩邸焼き討ち事件」と言われるこの事件は、単なる不逞浪士の取締でなく実態はその規模な…

  

2018-09-23 20:49:54

町田 明広
@machi82175302
12月25日早朝、薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍は一斉に砲撃を開始、邸内に突入。脱出をはかった浪士や薩摩藩士は市街に出て抵抗、一帯は烈しい戦闘になった。28日、対薩強硬派の目付滝川具挙・勘定奉行小野広胖が上坂、議定就任が内定した慶喜に報じた。

  

2018-09-23 20:50:27

町田 明広
@machi82175302
強硬派に押されたか、堪忍袋の緒が切れたか、慶喜は慶応4年元旦、滝川に「討薩表」を授け上京を指示、2日に率兵上京が開始された。薩摩藩・西郷は江戸藩邸を脱出した秋田藩浪士から30日(大晦日)に薩摩藩邸焼き討ち事件を確認、翌元旦に「残念千万之次第ニ御座候」と述べた。

  

2018-09-23 20:51:09

町田 明広
@machi82175302
これは新政府内が分断され、薩摩藩が狙い撃ちにされることを懸念からの発言と考える。いずれにしろ、本事件は鳥羽伏見の戦いの導火線となった。さあ、本日のメインであった鳥羽伏見の戦いを見ていこう!

  

2018-09-23 20:51:39

町田 明広
@machi82175302
慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)1月2日、旧幕府全軍は大坂を激発、先鋒は会津・桑名、後続は姫路・讃州高松・伊予松山・大垣・浜田・忍・笠間等の諸藩と幕府軍、本営を淀に置き全軍の指揮は老中格大河内正質、「討薩表」は大目付滝川具挙が携え入京した。

  

2018-09-23 20:52:48

スポンサーリンク

町田 明広
@machi82175302
1月3日、新政府は旧幕軍に対し人数引払いを命じ、勅命拒否の場合、「止むを得ざるの場合に付、朝敵たるをもって御所置在らせらるべく候事」と通告した。しかし、老中格大河内が正総督として伏見に本軍を率兵した。

  

2018-09-23 20:53:05

町田 明広
@machi82175302
さらに、若年寄塚原昌義が副総督として鳥羽に別軍を率兵し、伏見では2日夜より会津藩兵を主力とする諸隊が続々到着、陸軍奉行竹中重固が統率し伏見奉行所に本陣を設置した。

  

2018-09-23 20:53:45

町田 明広
@machi82175302
肥後藩はもともと親幕的であり、世子細川護久の許で議論が沸騰し、旧幕府に加担すべきとの声も強かったが、護久の判断で静観に決定した。肥後藩が参戦の場合、状況は一変したのではないか。このあたり、大山柏『戊辰戦役史』上に詳しい。

  

2018-09-23 20:55:48

町田 明広
@machi82175302
薩長土三藩兵は伏見奉行所を包囲、1月3日昼より一触即発の状態に突入、鳥羽口でも旧幕軍は警備薩兵に北上を阻止され続け、午後5時、旧幕軍は鳥羽口阻止線を強行突破しようとしたため激戦が開始された。

  

2018-09-23 20:56:17

町田 明広
@machi82175302
鳥羽口の砲声に連動して、伏見奉行所に集結した新選組を含めた旧幕軍も包囲軍と交戦状態に突入した。なお、伏見戦闘に山内容堂の「私闘に参加すべからず」の指示を受けていた土佐藩兵は不参加であった。(新政府軍加担は7日)

  

2018-09-23 20:56:35

町田 明広
@machi82175302
新政府には薩長両藩の主導に反感を持つ山内容堂・伊達宗城・浅野茂勲他の議定がおり、慶喜に過度に同情的であった。そのため、政権は常に不安定で、西郷らは開戦時に必ずしも勝利を確信せず、敗北の場合の対処も事前準備が必要であった。

  

2018-09-23 20:57:56

町田 明広
@machi82175302
新政府は敗北の際、明治天皇を山陰道へ遷幸を計画し、4日に西園寺公望が山陰道鎮撫総督に補職され、翌5日に本地域の軍事掌握ため、薩長両藩兵と出陣した。なお、長期戦に備え、庶民を新政府側の見方にするため、1月5日付で年貢半減令が丹波で交付されている。

  

2018-09-23 20:58:08

町田 明広
@machi82175302
1月3日夜から4日未明の激戦には、旧幕軍側は旧募兵5000、会津3000、桑名1500、これに高松・大坦・浜田・小浜・忍等の諸藩兵が加わった15000の大兵力を擁した。一方で新政府側は薩藩兵3000、長州藩兵2900であり、数的には圧倒的に有利な旧幕軍側が完敗したのだ。

  

2018-09-23 21:02:13

町田 明広
@machi82175302
旧幕軍の敗因について、薩長軍が装備・訓練ともに数段の差をつけており、両藩ともに本格的な戦争を経験、不断の猛訓練を積み重ねてきた兵力であった。さらに、薩長軍が事前に有利な地を占拠して迎撃体制を万全に完備していた。

  

2018-09-23 21:02:34

町田 明広
@machi82175302
慶喜は大坂城に留まって形勢を観望し、旧幕軍の指揮体制も急ごしらえで末端まで徹底せず、志気振興と全軍統率で薩長軍と格段の差があった。特に旧幕軍が朝議によって朝敵となり、3日深夜、議定仁和寺宮嘉彰親王が軍事総裁兼帯を拝命、4日朝に征討大将軍に補職された。

  

2018-09-23 21:03:02

町田 明広
@machi82175302
そして、議定仁和寺宮嘉彰親王が鳥羽街道の東寺に錦旗を掲げ出馬したことで、決定的に旧幕軍は士気が低下した。但し、ドラマのように最初から錦旗が上がったわけではない。旧幕府軍は大兵であったため油断が生じており、戦闘なしで入京できるとの目論見も存在した。

  

2018-09-23 21:03:34

町田 明広
@machi82175302
1月4目早朝、旧幕府軍は重ねて鳥羽・伏見両道より進撃を試みたが連敗し、伏見の新政府軍はその機に乗じて鳥羽の旧幕軍側面を攻撃したため、旧幕軍は富森に退いて戦闘を継続した。なお、西郷従道が重傷を負ったのは事実。 

  

2018-09-23 21:04:22

スポンサーリンク

町田 明広
@machi82175302
1月5日、淀堤に退いたところ、淀城(藩主稲葉正邦は在府)は新政府軍に従属して開門せず、敗走する旧幕軍は止む無く八幡・橋本で交戦を継続した。6日、淀川対岸の山崎関門を固めていた津藩兵が勅命を受け対岸の橋本に砲撃を開始し、旧幕軍は総崩れとなって大坂城に撤退した。

  

2018-09-23 21:05:27

町田 明広
@machi82175302
さて、西郷であるが、戦闘勃発に対し、「鳥羽一発の砲声は百万の見方を得たよりもうれしい」と、会心の笑みを浮かべたと言われる。戦闘は新政府軍の優位に進んだが、戦況が気になってしかたがない西郷は、伏見まで出かけて観戦し、味方の見事な進退に喜悦している。

  

2018-09-23 21:05:49

町田 明広
@machi82175302
1月6日午後10時ころ、慶喜は老中酒井雅楽頭・板倉勝静、松平容保、松平定敬、目付榎本道章、奥医師坪井信良らを従えて大坂城を脱出し、開陽丸に乗船して上方から遁走した。1月11日夜、品川沖に到着、翌12日、慶喜は江戸城に入城した。

  

2018-09-23 21:08:08

町田 明広
@machi82175302
さて、鳥羽伏見の戦いの影響について、少々触れたい。新政府軍の完勝によって、不安定な新政府の基礎を磐石なものに転化したのだが、そもそも、鳥羽伏見の戦いはもっと重要視されるべきで、日本史上、屈指の戦争の一つである。

  

2018-09-23 21:08:21

町田 明広
@machi82175302
1月3日夜、薩長優位の政策決定に不満な議定尾張慶勝・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・浅野茂勲らは辞意を表明していた。しかし、慶喜追討令の方針に容堂らも賛同せざるを得ないほど情勢は激変する。

  

2018-09-23 21:09:03

町田 明広
@machi82175302
7日夜、小御所に召集された百官・諸候に対し、総裁熾仁親王より慶喜追討令が沙汰されたが、議定岩倉具視は「徳川家に従うものは大坂に赴くべし、帰国するもよし、勤王の誠を致さんとするもよし、各自自らの態度を鮮明にして請書を八目辰刻までに提出すべし」と厳しく命令した。 

  

2018-09-23 21:09:16

町田 明広
@machi82175302
10日、征討大将軍仁和寺宮は大坂城入り、西国掌握の本営にした。同日、慶喜・容保・定敬・久松定昭(伊予松山)・松平頼聡(高松)・板倉勝静(備中松山)・大河内正質(大多喜)他諸侯、永井尚志・平山敬忠等旗本の官位を剥奪、小浜・宮津・大垣・延岡・鳥羽の各藩主に対し入京を禁止した

  

2018-09-23 21:10:25

町田 明広
@machi82175302
薩摩藩邸焼き討ち事件という不測の事件から発展し、戊辰戦争の導火線として勃発したのだが、旧幕府側にとっては慶喜の新政府入り目前に起きた痛恨事であった。慶喜が単独上京していれば歴史は大きく相違したかもしれない。

  

2018-09-23 21:10:45

町田 明広
@machi82175302
江戸での立て直しを図った慶喜は、6日夜に閣老らと密かに大坂城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸に撤退した。新政府は、7日には慶喜らを朝敵として追討令を発し、17日には忠義が海陸軍務惣督、西郷が海陸軍掛・徴士に任命された。

  

2018-09-23 21:12:33

町田 明広
@machi82175302
しかし、西郷は島津家が徳川家に取って代わろうとしていると誤解されるとして、忠義にも納得させて両名とも即座に辞退している。薩摩藩へのこうした嫌疑は、西郷を悩ませ続けることになる。

  

2018-09-23 21:12:48

町田 明広
@machi82175302
慶喜は、1月中に3回にわたってロッシュとの会談に臨んだ。慶喜は当初、新政府に対して徹底抗戦を画策し、ロッシュの援助を受け入れる態度を示した。しかし、列強が新旧政権に対等な交戦団体権を認める局外中立宣言を出した。

  

2018-09-23 21:13:54

町田 明広
@machi82175302
そのため、新政府は国際社会で正式に「新政権」と認められる以前に、旧幕府と同等の地位を得ることになった。慶喜は列強の動向に加え、自身が朝敵となった事実から復権は難しいと判断し、2月に入ると急速に恭順に傾き、12日には江戸城を辞して寛永寺に逼塞した。

  

2018-09-23 21:14:26

町田 明広
@machi82175302
幕末を才覚だけで渡り歩いた策士慶喜も、万策尽きたのだ。ここに、幕府による全国再統一は叶わず、フランスがイギリスを押さえて主導権を奪い取るという、ロッシュの野望も潰えた。

  

2018-09-23 21:14:46

町田 明広
@machi82175302
その後、新政府軍は江戸を目指して進軍を開始し、西郷は東征大総督参謀、つまり、実質的な軍事責任者として参軍し、3月3日に駿府に到着した。既に静寛院宮(和宮)や天璋院(篤姫)らの江戸城攻撃中止と徳川家の存続の嘆願書が寄せられていた。

  

2018-09-23 21:16:33

町田 明広
@machi82175302
西郷は当初、慶喜は断罪にすべきであると主張していた。そこに、旧幕府の若年寄格・陸軍総裁、勝海舟の使者として山岡鉄舟が現れたため、7日に会見に及んだ。西郷は、山岡の態度に感銘したこともあいまって、江戸城明け渡しなどの絶対恭順を条件に、慶喜助命・徳川家存続を約束した。

  

2018-09-23 21:16:47

スポンサーリンク