この記事は、
西郷どん 第40話「波乱の新政府」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

廃藩置県

数日後、新政府が揺れた。

岩倉「ああ~ついに300の藩に分かれとった日本が天子様の下まこと一つの国になるんや!」

大久保と木戸が組み、土佐と肥前を出し抜いたのだった。

「こんな政府やっちょれるか!」

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怒り心頭のメンバーに対し、大久保は冷酷に言った。

「足手まといは辞めて頂いて結構」

後藤象二郎らが大騒ぎをする中、会議に西郷は来ていなかった。

「何で西郷君は姿を見せんのじゃ?」
「戦の英雄西郷隆盛が陣頭指揮を執ってこそ御親兵は誰もが畏れる軍隊なんじゃ」
「それやのにその肝心の西郷君がおらんじゃないか!」

紛糾する中、木戸孝允までもが大久保に食って掛かった。

木戸「君は私をだましたんか?」
「大久保!お前もしかして西郷と仲たがいしたん違うんか?おい!何とか言わんかい!」
「西郷君がおらんのじゃったら廃藩はできん!」

その時、西郷は現れた。

「遅くなってしまいもした。申し訳ございもはん」
「いや~御親兵たちの調練を見に行っちょったもんで遅くなってしまいもした。じゃっどんさすが土佐長州薩摩の誇る精兵中の精兵でごわんどなぁ。すっかり見入ってしもた」

そこで、西郷は異様な雰囲気に気付いた。

「どこへ行かるっとですか?」
「西郷さんわしら訳あってたもとを分かつことになったがですき」
「あとは薩摩と長州で好きにしたらよか」

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西郷「お待ち下され。待って下され!」
「構わん吉之助さぁ」
「私はお主が来てくれただけで十分だ」

「んにゃこいじゃいかん」
「薩摩と長州だけでできるはずがなか」
大久保「できる!」

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西郷「できん!できるはずがなか!」
「藩の取り潰しはおいたち政府が一枚岩になってこそじゃ」

「藩がなくなったあとも行く末を任せられると信じてもらわねば反乱も起きてしまう。そうならないために御親兵がいるんだ」
「西郷隆盛がいるんだ!御親兵とて同じじゃ!」
「みんなおいたちを信じて集まってくれちょっど」
「あの者たちだけじゃなか」
「全ての民にこげなつまらん政府ち思わせたらいかん」

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「おいたちの肩には戊辰で死んでいった8000の魂が乗っちょったっど」
「もう一度みんなが一つになって存分に話し合いもんそ」
「ほいでそん答えを堂々とやったらよか」

西郷に反論できるものはなかった。
土佐や肥前の者たちももう一度テーブルを囲むことになったのだった。

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一二三
@nunonofuku123
江藤新平「勅書を賜ってからなんでもありなんて騙しうちだ!」
徳川慶喜「そうだそうだ!」
松平容保「そうだそうだ!」

  

2018-10-28 20:35:53

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
迫どんの江藤が鈴木亮平さんの隆盛に顎をしゃくって視線を見交わすシーン。どうしても私は演技以上の熱い感情や慰労の念を感じ取ってしまうのだ。ありがとう迫どん先生、ありがとう亮平さん…!

  

2018-10-28 20:40:14

榎本武揚
@enomotokamajiro
だんだんかっこいいビジュアルが揃うイケメンパラダイス新政府という
異世界に迷い込んだ笑福亭鶴瓶という番組に見えてきた。

  

2018-10-28 20:38:04

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会議後の2人

会議が解散した後、大久保は素直な心の内を明かした。

「もう来んかち思った」
「すまん」
「実は迷っちょった」
「じゃっどんやっと心を決めた」

そして大久保は尋ねた。

「吉之助さぁ」
「おいはないか間違っちょったか?」

「んにゃ…」
「おはんはそいでよか」
「何年後何十年後にこいでよかったちみんなが思える日本にする」
「そいがおはんがしようちしちょっ政じゃろ?」
「ああそうじゃ」
「じゃったらおはんは思ったとおり存分にやればよか」
「おはんが抱えきれんもんはおいが抱えっで」

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心の支えが取れた大久保と西郷は握り飯を頬張った。

「うんまか」
「うんまかなぁ」

この後、諸藩の知藩事留守居役たちが急きょ集められ藩の解体とかつての藩主の解任廃藩置県が断行された。こうして日本は全く新しい形へと生まれ変わったのだった。

ま〜どんな〜♪
@Ma_don_happy
ヤバい、鳥肌😢
大久保と西郷の友情
そのまま続いて欲しいけど…

  

2018-10-28 20:44:30

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
しかし正妻大久保と、西郷の間にいまだ燻る焼けぼっくい感たまんねぇな!そこんとこ終盤まで全然ブレないな!

  

2018-10-28 20:41:47

みずほ
@ha43zu
はるか昔、妻が夫に捧げた言葉の返しだね。今度は夫から妻へ…

  

2018-10-28 20:42:04

マルコ@drama
@marukodorama
廃藩置県を推し進める上の抵抗勢力を抑える為に吉之助の親兵を纏める力がいるという事か。
新政府の一人一人がしっかり民に信頼してもらえる政府になっていかないといけない。それでも出る膿は自分が引き受けると説く吉之助。鈴木亮平さん本当に西郷隆盛に成り切っていて素晴らしい。

  

2018-10-28 20:39:58

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西郷どん 第40話「波乱の新政府」感想

海野つなみ
@uminotsunami
春菜のいない穴を熊吉が埋めてくれている
西郷どんや大久保より熊吉の行く末が気になる

  

2018-10-28 20:44:57

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
父がね、有り難いと目が潤むわけ…。鈴木亮平さんの西郷は、多分鹿児島の古い世代が幼少から教えられ、憧れ、理想としてる西郷隆盛の具現だと思うのね。本当に、鈴木亮平さんには感謝しかないです…。

  

2018-10-28 20:44:52

甘党猫が通りますよ
@Future_Men
小松帯刀はひっそりと退場(史実では明治3年に病死)したなぁ。画面に違和感を感じるほどのイケメン、町田啓太さんありがとうございました。丁髷があんなに似合う現代風のイケメンは珍しい。 

  

2018-10-28 20:56:13

桂小五郎
@Katsura_Kogoro
私は大久保のことは”とてつもなく”嫌いだが、互いに認め合ってはいたのだぞ?
1度久光公が大久保を新政府から辞めさせようと騒いでいた時、私は長文の手紙を送り付けてビシッと言ってやったのだ。彼奴も私の為に骨を折ってくれるしな
ん?何だって?流石夫婦??
フグ投げちゃろうか

  

2018-10-28 20:47:02

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」40回目を拝見!本日は近代日本最大の革命ともいえる廃藩置県がメインでした。大久保の強靭な意思、それに応えようとする西郷、友情に培われた、そして維新を成し遂げた両雄の葛藤と決断、見ごたえがありました。なお、ストーリーはドラマとしての脚色が中心です。

  

2018-10-28 20:46:23

町田 明広
@machi82175302
まずは戊辰戦争中・後の西郷の動向を振り返っておこう。明治2年(1869)2月23日、藩主忠義が自ら隠棲していた西郷を日当山に訪れて、薩摩藩の参政就任を懇願した。それまでは、久光の召命にも応じなかったが、藩主直々の頼みを断る訳にもいかず、西郷は参政に就任した。

  

2018-10-28 20:46:50

町田 明広
@machi82175302
明治政府は前年10月に、府藩県の行政組織を統一するため藩治職制を制定し、職制を執政・参政・公議人に統一するよう求めていた。薩摩藩がこれを採用したのは、西郷が参政就任を依頼される直前で、執政を欠員としたため、西郷が実質的な藩の最高幹部となった。

  

2018-10-28 20:47:03

町田 明広
@machi82175302
島津忠義が西郷に参政就任を求めたのは、川村純義や伊集院兼寛ら戊辰戦争で活躍した凱旋将兵が一斉に帰藩し、出兵に消極的であった門閥の打破や人材登用を猛烈に唱え、抑えが利かなかったことによる。西郷担ぎ出しによる鎮静化を期待したのだ。

  

2018-10-28 20:47:21

町田 明広
@machi82175302
2月17日には、川村らは出兵に反対した久光の次男、島津久治を忠義の面前で詰問し、家老職の辞職にまで追い込んだ。久光も門閥廃止は必要としながらも、事を慎重に運ぶべきであると考えていたが、藩主父子であってもこの形勢はいかんともし難く、久光は西郷の出馬を求め鎮静を依頼した。

  

2018-10-28 20:47:43

町田 明広
@machi82175302
西郷は凱旋将兵を積極的になだめる姿勢を見せず、久光は川村らが改革・批判の手を緩めないことに怒りを増幅させ、西郷が彼らを扇動しているのではないかと疑い、西郷を激しく憎むことになった。一方で、西郷は参政として、禄制改革・常備兵強化など諸制度の改革に取り組んで藩政を指揮した。

  

2018-10-28 20:49:51

町田 明広
@machi82175302
最初に藩庁を知政所、島津家の家政所を内政局とし、西郷と一心同体の桂久武を知政所の執政心得とし、伊地知正治ら五人を参政とした。また、軍務・会計・糾明・監察といった各局を設置し、その総裁は凱旋将兵から抜擢した。明治2年6月に行われる、…

  

2018-10-28 20:50:05

町田 明広
@machi82175302
藩内の私領制度を廃止し、島津一門・門閥の私領地はすべて藩庁が取り上げ、新任の地頭を置いて統轄させた。地頭には、樺山資紀・高崎正風・高崎五六などが人物本位で任命された。地頭は、管轄内の郷士を編成して民生・軍政を指揮しており、廃藩置県の先取りである。

  

2018-10-28 20:50:50

町田 明広
@machi82175302
次いで、藩士の家格なども全廃して一律に士族とし、新たに禄制等級を設け、門閥の禄高は従来の8分の1に大削減し、上層士族の高は200石まで削り、下級士族の高は逆に200石に近づけた。これを踏まえ、士族を常備兵に編成し直し、総勢1700…

  

2018-10-28 20:51:09

町田 明広
@machi82175302
さらに、装備は最新の施条錠を採用し、集成館や火薬製造局で銃や火薬を製造、職工は千人を超えていた。また、イギリス人医師で外交官であるウィリアム・ウィリスを鹿児島医学校兼病院の校長として招いた。こうして西郷は、薩摩藩を軍事大国に仕立て上げたのだ。

  

2018-10-28 20:51:24

町田 明広
@machi82175302
西郷は、決して封建制を擁護していたわけではなく、廃藩置県を先取りした禄制改革や地頭設置などを試みた。そして、西洋文明を取り入れる柔軟性を持っており、単純な攘夷論者でもなかった。一方で、士族を再編・優遇し、国家の有事に備えた。

  

2018-10-28 20:52:43

町田 明広
@machi82175302
当時、新政府には兵力が皆無であり、諸藩は軍事改革を進めていた。西郷はこうした状況を憂い、次の内乱を討伐するために薩摩藩をモデルにしたのだが、新政府からはルールを無視した軍国化に疑念をかけられた。

  

2018-10-28 20:52:55

町田 明広
@machi82175302
もちろん、必要があれば、武力で政府を一新することも、また、西郷の念頭にはあったはずだが、いずれにしろ、薩摩藩の軍国化によって、西郷は全国の不満分子の期待を一身に背負うことになった。

  

2018-10-28 20:53:15

町田 明広
@machi82175302
こうした中で、明治2年5月、西郷は再び藩兵を率いて箱館戦争に向かった。新政府から何ら要望も出されていない中での、西郷の独断であった。しかし、到着前に戦闘が終結し、戦うことなく箱館から帰国の途に就いた。連れてきた軍隊を政府が欲したが、西郷は無視して帰国してしまう。

  

2018-10-28 20:54:04

町田 明広
@machi82175302
明治2年6月2日、政府は戊辰戦争終結に伴い論功行賞が行ったが、忠義は従三位・参議に、久光は従二位・権大納言に任じられ、賞典禄10万石が与えられた。西郷も賞典禄2000石を与えられ、9月には正三位に叙せられたが、忠義より高位なることをはばかり、官位辞退を申し出た。

  

2018-10-28 20:54:38

町田 明広
@machi82175302
なお、明治2年1月20日の時点で、忠義ら薩長土肥の4藩主は連名で版(土地)と籍(人民)を朝廷に返上すること、つまり、版籍奉還を上奏していた。これにならって、他藩主も追随していたが、戊辰戦争の終結を機会として、6月17日、いよいよ実現の運びとなった。

  

2018-10-28 20:55:07

町田 明広
@machi82175302
藩主の封建的な諸特権は、ほぼ従来通りであったものの、身分上は知藩事として天皇の任命する官吏となった。薩摩藩は鹿児島藩(以降の記載も薩摩藩と旧藩名で統一)とされ、忠義が藩知事に任命された。

  

2018-10-28 20:55:37

町田 明広
@machi82175302
版籍奉還といった改革を進めながらも、中央政府は安定感を欠いていた。維新の原動力となった薩長両藩であったが、薩摩藩は久光が政府批判を止めず、しかも西郷が軍事国家を作り上げて、政府一新のために率兵上京するのではないかという観測も流れた。

  

2018-10-28 20:55:56

町田 明広
@machi82175302
長州藩では奇兵隊の反乱がおこり、大村益次郎・広沢真臣は暗殺され、前原一誠は萩に引きこもって、木戸孝允への攻撃を続けていた。百姓一揆は頻発し、不平士族の動向も油断ならなかった。そこで、政府は何とか西郷を担ぎ出し、この難局にあたろうとした。このあたりが、先週描かれた時期。

  

2018-10-28 20:56:39

町田 明広
@machi82175302
明治3年(1870)11月、大久保利通は勅使岩倉具視とともに鹿児島に向かい、西郷に上京の勅命を齎した。久光にも上京を求めたが、体調不良を口実に拒否された。しかし、西郷の上京は認めたため、翌4年1月、西郷は鹿児島を出発、山口・土佐に…

  

2018-10-28 21:02:35

町田 明広
@machi82175302
西郷は、維新を成し遂げた薩摩・長州・土佐の3藩が中心となって、もう一度、一致協力して改革にあたることを画策したのだ。西郷は、新政府に直属の軍事力がなければ、改革など何事もできないと判断し、御親兵を設置することを提言して同意を得た。

  

2018-10-28 21:02:49

町田 明広
@machi82175302
西郷はいったん鹿児島に戻り、明治4年(1871)4月に藩知事となった忠義とともに兵3000余りを率いて上京した。長州・土佐両藩の兵と合わせて約8000の御親兵(翌年から近衛兵と改称)が誕生した。6月には西郷と木戸が参議に就任し、いよいよ大改革の時が迫った。

  

2018-10-28 21:04:47

町田 明広
@machi82175302
新政府は御親兵の武力を背景に、明治4年(1871)7月14日に廃藩置県を断行した。廃藩置県は木戸・山県有朋ら長州藩出身者の主導で推進されたが、西郷が反対するのではと危惧していた。しかし、西郷は反対するどころか大いに賛意を表した。

  

2018-10-28 21:07:02

町田 明広
@machi82175302
西郷はもしも反対する藩があれば、御親兵を率いて征伐するので心配無用であると言い放って不安がる周囲を落ち着かせ、断行への道筋を開いた。むしろ、大久保の方が躊躇してなかなか決断ができず政府がこのまま瓦解するよりも、一か八かに打って出る方がましであると観念しようやく同意した。

  

2018-10-28 21:08:38

町田 明広
@machi82175302
西郷は、廃藩への動きはもはや人力の及ばざるものであり、これを拒めば維新の勲功はすべて失われると覚悟していた。また、長州藩との協調を重視し、閣内で孤立することを恐れた側面もあったかも知れない。

  

2018-10-28 21:09:05

町田 明広
@machi82175302
いずれにしろ、西郷の勇断がなければ、廃藩置県の成功は見込めなかった。ところで、廃藩置県は封建制に終止符を打ち、我が国を近世から近代に導いた画期的な大革命である。いわゆる150年前の1868年の明治維新に比して、廃藩置県こそが真の革命であった。

  

2018-10-28 21:09:53

町田 明広
@machi82175302
その革命を成し遂げた西郷は、事実上の士族の棟梁でありながら、その基盤である藩を葬り去った。西郷の悲劇は、ここに萌芽したのだ。なお、ドラマでは廃藩置県を大久保利通が推進主体と描かれているが、大久保はむしろ慎重論者であった。

  

2018-10-28 21:10:10

町田 明広
@machi82175302
西郷は一方で、汚職や強権によって豪奢し腐敗する政府員を更迭して、清廉強力な人材を起用することを目指したが、こちらは思うようにいかなかった。西郷は、参議として絶大な権限を保持しながら、政策を構想する能力にはやや欠けていた。

  

2018-10-28 21:10:50

町田 明広
@machi82175302
そして、西郷はそれを補うブレーンに恵まれなかった。西郷の周りには有能な軍人はいたが、優秀な政治家はいなかったのだ。どんなに大隈重信や井上馨を毛嫌いしたところで、その代わりの駒を持ち合わせていない西郷は、彼らを罷免することなどできなかった。

  

2018-10-28 21:11:02

町田 明広
@machi82175302
廃藩置県によって、薩摩藩は鹿児島県となり、藩知事忠義は解任されて大山綱良が権大参事(後に県令)に就任した。廃藩を知った久光は激怒し、花火を打ち上げて鬱憤を晴らしたという。久光の西郷に対する恨みは、骨髄に達してしまった。

  

2018-10-28 21:11:46

町田 明広
@machi82175302
久光はそもそも、廃藩置県など夢想だにせず、あくまでも緩やかな結合の連邦国家の中で、各藩が大きな権限を持つことを志向していた。しかし、その方向で動いていたはずの家臣に裏切られ、中央集権国家の樹立の名のもとに、藩祖代々の土地・人民を失ってしまったのだ。

  

2018-10-28 21:11:56

町田 明広
@machi82175302
ここから、久光の反撃が始まる。久光は、自らの県令就任への運動を始めたのだ。これには西郷も、驚嘆せざるを得なかった。三条実美の協力を得て、なんとかその運動を断念させたものの、久光の意図はこの運動を通じて、西郷ら旧薩摩藩出身者の失脚を謀ったことにあった。

  

2018-10-28 21:12:56

町田 明広
@machi82175302
こうした西郷の苦衷を察した明治天皇は、久光を慰撫するために西国巡幸を仰せ出され、翌5年(1872)に実現した。西郷は天皇に供奉して巡幸全体を取り仕切り、6月22日から7月2日まで鹿児島に滞在したが、西郷の目論見は外れて、久光を慰撫…

  

2018-10-28 21:13:13

町田 明広
@machi82175302
久光の失望と怒りは、まず天皇の在り方に及んだ。西郷は吉井友実・村田新八らを宮内大丞として送り込み天皇の周辺を士族で固め、女官たちを罷免するなど宮中改革に積極的に取り組んでいた。国民との接触が密であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のような天皇に育てることを模索した。

  

2018-10-28 21:13:58

町田 明広
@machi82175302
君主としては白紙状態の幼い天皇を、新国家日本のシンボルとして誇れる存在にまで育成することに意を用いた。旧態依然とした天皇の在り方しか頭にない久光は、天皇が洋服を着用し、異人館のような玉座におられたことに激怒した。

  

2018-10-28 21:14:11

町田 明広
@machi82175302
久光は、宮中改革に代表される開化政策を批判し、旧制に復することを求めた建白書を提出した。また、行在所の鹿児島城本丸から久光が居住する二の丸まで、わずか数百メートルしか離れていないにもかかわらず、西郷は滞在中に久光のもとへ挨拶に行かなかった。

  

2018-10-28 21:14:21

町田 明広
@machi82175302
10日間の滞在中、西郷さえその気になればいつでも行けたはずである。久光の意向を無視し、様々な改革を推進して久光を憤慨させていたため、また、久光実子の久治の自殺後であり、気が進まず遠慮したこともあろう。

  

2018-10-28 21:14:52

町田 明広
@machi82175302
7月2日、天皇は鹿児島を後にしたが、久光の怒りは収まらず、その後も繰り返し西郷・大久保の罷免を、また、西郷には特に帰国・釈明を求めたのだ。西郷の苦悩は深く、その対応に苦慮し続けることになる。話が少し進み過ぎた。

  

2018-10-28 21:15:19

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