この記事は、
西郷どん 第44話「士族たちの動乱」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

菊次郎の帰還

明治7年6月。隆盛の願いによって建てられた学校は私学校と名付けられた。

そんな時、アメリカへ留学していた菊次郎がいとこと共に鹿児島へ帰ってきた。そして私学校へ通うこととなった。

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さらに桐野利秋も考えを改め、私学校を手伝うことを決意した。

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一方、政府では川路が大久保へ報告を行っていた。

川路「西国に潜らせている密偵からでございもす」
「熊本福岡山口の不平士族たちはますますそん数が増えておるとのこと」

大久保「鹿児島は?」
「西郷先生が私学校っちゅうのを作られもした」
「薩摩の士族たちが日ごと続々と集まっておるようです」
「続々と?」
「はっ続々と」

大久保「分かっておるな?」
「密偵の数を増やせ」

やがてこれが西南戦争の火種となるのだった。。

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Watanabe
@nabe1975
「私学校」とはいうものの、費用は鹿児島県の予算から支出された。なお最初に建てられた賞典学校には、西郷や大山以外に大久保も費用を拠出している。

  

2018-11-25 20:38:25

眞鍋やよい@クー子は丸佳浩さん待ち
@manayayo
これがどうやったら西田敏行になるんやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

  

2018-11-25 20:38:35

いが(たろに)
@iga_iganao
このドラマは薩摩視点なので仕方ないんだけど、薩摩は政府が各県に課した法や制度を無視して相当好き勝手にやってた&やり始めるので、そりゃこのまま放置もできんかったろうなと思うし、雄藩以外から見るとおいおいって感じよ

  

2018-11-25 20:39:07

眞鍋やよい@クー子は丸佳浩さん待ち
@manayayo
え?戦国無双?

  

2018-11-25 20:40:20


@s_abagashira
「人斬り半次郎じゃ!!!」 …あの、この大河の半次郎、まだ不殺ですよ みそしるみそしる 

  

2018-11-25 20:40:22

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
アクションが1人だけ実写版・るろうに剣心だった。

  

2018-11-25 20:41:06

山本八重さん@会津
@aizu_sniper_yae
このタイミングで剣術や砲術も鍛える「学校」を開くとか、誰がどう見ても西郷P主導の軍隊養成機関だから叛乱を疑うなという方が無理な時代の空気(´・ω・`)

  

2018-11-25 20:41:07

令狐楚
@amzgzm
ちがうねん。腕の立つ証拠としてのアクションが見たいんじゃないねん。半次郎が醸し出す恐怖が見たいねん

  

2018-11-25 20:42:04

東区の人
@Higashikunohito
なんか…
なんか、大久保利通の思惑どおりに話が進んでいるようで、めちゃくちゃムカつくんですけど。

  

2018-11-25 20:44:31

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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」感想

佐倉蔡
@sai_0211
半年経ったくらいからそうじゃないかなーとは思ってたけど、周囲の人間が西郷に期待し、西郷という理想を築き上げ、期待を背負った西郷が滅亡に突き進む流れだ…めっちゃ怖い話しだわ、西郷どん 

  

2018-11-25 20:44:39

スペ子
@spwspeco
来週から西南戦争か…
あと3回で終わっまう(´・ω・`)
来年からどうやって生きようか…

  

2018-11-25 20:45:27

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
負ける組の政府要人が大久保以外若干頭の回転おバカっぽく描かれてるのがなんだか悔しい。

  

2018-11-25 20:46:02

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」44回目を拝見!本日は明治6年政変で下野した西郷と、西郷を慕って下野した若き士族との葛藤、そして私学校設立がメインでした。村田新八と川路利良実の選択の対比など、見ごたえがありました。なお、ストーリー自体はドラマとしての脚色が中心です。

  

2018-11-25 20:45:49

町田 明広
@machi82175302
明治6年(1873)11月10日、政変に敗れて下野した西郷隆盛は鹿児島に戻り、武村の自宅で静かに余生を過ごそうと欲した。極めて質素な住環境の中で、農業に勤しみながら、「武村の吉」(武村の百姓・吉之助)として、悠々自適に生きることを志向した。

  

2018-11-25 20:46:57

町田 明広
@machi82175302
しかし、西郷自身も、そんなことが簡単に許されるはずないことは自覚していた。西郷を慕って下野した近衛兵や警官など、その数は600名を超える勢いであり、こうした士族たちを統率し、生きる術を与え続けることが、責務として西郷に重くのしかかることになった。

  

2018-11-25 20:47:22

町田 明広
@machi82175302
ところで、鹿児島県は廃藩置県後も、それ以前と大差のない状況を作り出していた。西郷の盟友の一人、県令大山綱良は県の役人のすべてを旧薩摩藩士族から登用し、租税は中央に納めなかった。

  

2018-11-25 20:49:47

町田 明広
@machi82175302
鹿児島県では、表向き政府の法令に従いながら、旧態依然とした士族による封建国家の様相を呈し、徴兵制も無視されていた。鹿児島は島津家に替わって西郷を最高支配者、事実上の新藩主とする士族独裁国家に変貌することが容易な下地は、西郷の帰国以前に出来上がっていたと言えよう。

  

2018-11-25 20:50:09

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町田 明広
@machi82175302
西郷と共に下野した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、明治7年(1874)1月、民撰議院設立建白書を提出し、大久保利通らの有司専制政治を批判し始めた。西郷も板垣から誘いを受け賛意を示しながらも、いざとなれば言論ではなく武力によって…

  

2018-11-25 20:51:05

町田 明広
@machi82175302
いかにも西郷らしい物言いであるが、西郷の頭の中には、政府がどうにも立ち行かなくなった場合、西郷自身が再度、廟堂に立つという考えがあったらしい。こうした言論による政府攻撃とは距離を置く、武力発動による政府打倒を謀る動きが見え始める。

  

2018-11-25 20:51:38

町田 明広
@machi82175302
明治7年(1874)1月に旧土佐藩士らによる赤坂喰違の変(岩倉具視暗殺未遂事件)が起こり、2月には江藤を盟主とする佐賀の乱が勃発した。いわゆる士族反乱のスタートである。反乱自体はあっけなく鎮圧され、江藤は佐賀を脱出して、3月1日に…

  

2018-11-25 20:53:19

町田 明広
@machi82175302
しかし、西郷はかつての盟友であった江藤の要望を謝絶した。西郷には、この時点で政府を倒す意思は毛頭なく、しかも、自らの兵を置き去りにして、ここまで来ている江藤を許すことはできなかった。江藤は目的を果たせず、西郷の許を去ったが、不屈の江藤は諦めずに高知に潜伏する。

  

2018-11-25 20:53:36

町田 明広
@machi82175302
しかし、江藤はここでも時期尚早であるとして、武力発動を否定的に捉える板垣に拒否され、万事休した。行き場を失った江藤は、高知で捕縛されて佐賀に送られ、大久保によって処刑されたのだ。明治6年政変で下野した中で、最も憎まれ、恐れられていた江藤の無残な最期であった。

  

2018-11-25 20:53:57

町田 明広
@machi82175302
大久保は内地優先と言いながら、外征に踏みきる。明治7年5月の台湾出兵がその最初であるが、そもそも内地優先は明治六年政変で西郷らと対峙するための多分に口実であり、この時点では不平士族の不満を外に向けることを優先した。

  

2018-11-25 20:56:55

町田 明広
@machi82175302
この点、内地優先にこだわり、自分の発言に誠実な木戸孝允は、大久保に抗議して下野した。西郷は台湾出兵に対し、募兵に協力して800名余りを出兵させたが、これは鹿児島の余剰兵力のための方策では必ずしもなかった。

  

2018-11-25 20:57:11

町田 明広
@machi82175302
弟の従道が台湾征討都督であり、西郷はその要請にささやかに応えたまでで、派兵数は1,000にも満たなかった。ドラマでは台湾関係はスルーであった。まあ、尺の関係もあって、何でもかんでも描けるわけではないだろうと拝察。

  

2018-11-25 20:57:30

町田 明広
@machi82175302
西郷は佐賀の乱の際、当時左大臣であった島津久光が鹿児島に戻り、西郷に援軍派兵を要請したが、何のための徴兵であるかと正論を述べ、鹿児島士族の援兵派遣を拒否している。個人的には、久光公にも登場いただきたかった。

  

2018-11-25 21:01:31

町田 明広
@machi82175302
西郷には、積極的な政府打倒までの意思はなかったものの、だからと言って、擁護しようとの意思があったわけではない。しかし、無職化した大勢の士族が存在しており、県内の動揺は座視できないレベルとなっていた。

  

2018-11-25 21:02:38

町田 明広
@machi82175302
西郷はこうした不穏な鹿児島の状況を改善し、県内士族を指導・統率するために、明治7年6月、旧鹿児島城厩跡に銃隊学校と砲隊学校を開校し、この2校を中核とする私学校を設立した。

  

2018-11-25 21:03:05

町田 明広
@machi82175302
銃隊学校(旧近衛兵・約600)は篠原国幹、砲隊学校(旧砲兵・約200)は村田新八が主宰し、また、各地に旧郷士のための136に及ぶ分校も設立された。授業は午前中のみで、軍事訓練に学課は兵学・史学が中心であったが、漢学や精神訓話もあり、討論の機会も十分に与えられた。

  

2018-11-25 21:03:17

町田 明広
@machi82175302
これは藩政時代の郷中教育をベースにしており、その対象を壮年士族にも拡大したものであった。この他、照国神社南手あたりに、士官養成のための学校で、幼年学校とも称される賞典学校が設立された。生徒数は約100名で、西郷・桐野利秋・大山綱良らの賞典禄が設立資金に充てられた。

  

2018-11-25 21:03:56

町田 明広
@machi82175302
賞典学校について、実は当初、大久保も協力していた。なお、学課では漢学や洋学も取り入れており、外国人教師も招聘され、明治8年度は3名、9年度は2名、成績優秀者をヨーロッパに留学させるなど、極めて進歩的であった。

  

2018-11-25 21:04:32

町田 明広
@machi82175302
また、吉野寺山には旧陸軍教導団生徒を収容する農学校・吉野開墾社が創設された。生徒数は約150名で、昼は耕作に従事し、夜は学問をしており、西郷もしばしば足を運んでいる。

  

2018-11-25 21:04:45

町田 明広
@machi82175302
西郷は、私学校とは一定の距離を保ち、その運営・指導には直接かかわらなかったものの、幹部や生徒の精神的な支柱となり、政府から恐れられた「西郷党」を形成することになった。

  

2018-11-25 21:05:29

町田 明広
@machi82175302
また、大山県令の支持の下、学校経費には旧藩から県庁に引継がれた積立金が充てられており、県幹部を始め、区長・副戸長、地方行政組織や警察の要職を私学校幹部がほとんど独占した。私学校とは名ばかりで、士族独裁を県民に強いる政治機関となった。

  

2018-11-25 21:05:48

町田 明広
@machi82175302
鹿児島県では、県令すら西郷に服す有様で、行政機構も西郷党が支配しており、あたかも独立国家のような様相を呈した。中央の命令はことごとく無視され、まさに「西郷王国」の出現であった。

  

2018-11-25 21:07:28

町田 明広
@machi82175302
私学校の幹部や生徒の中には、過激な論を唱える者も多数存在した。桐野などは政府打倒を唱えつつ、鹿児島士族が先頭に立って征韓を実現すべきであり、その先の清への侵略も主張するなど、軍国主義を声高に叫んだ。西郷はこうした暴論を抑制しつつ、西郷自身は政治的な言動は極力避けていた。

  

2018-11-25 21:08:00

町田 明広
@machi82175302
西郷は日々、吉野開墾社などで農耕に励み、県内各地で狩猟を楽しむなど、一見平穏な日々を送っており、これは西郷の本来の願望の実現でもあるが、鹿児島に潜入している密偵の目をごまかす側面もあったかも知れない。

  

2018-11-25 21:08:13

町田 明広
@machi82175302
西郷は私学校とは一線を画し、基本的に幹部に一任していたが、その幹部が桐野のような反政府・侵略主義者であったので、「西郷王国」はその坩堝と化したのだ。しかし、西郷はそうした傾向を抑制はしたものの、否定はせず、結果としてその傾向を助長させたことは否めない。

  

2018-11-25 21:08:24

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