この記事は、
西郷どん 第45話「西郷立つ」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

鹿児島の大雪

その後、西郷は大山綱良の元を訪れ
大義は政府を問いただすためということを確認した。

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「おし!おっ!こいはおいから政府にも各県にもパ~ッちまいてやっで!のう!」
「ど~んち行ってけえ!」

県令である大山からお墨付きをもらい上京する準備を整えたのだった。

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出立の日、鹿児島は50年ぶりの大雪だった。
西郷は雪篷から盃を渡され、10年ぶりの酒を口にした。

隆盛の決起を聞いた九州各地の士族がどんどん集まって来ていた。
共に行くのは菊次郎、小兵衛、市来宗介、熊吉、さらに桂久武も弓を持って駆けつけてきた。

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また海江田武次は島津久光から伝言を預かってきてくれた。

海江田は久光のモノマネをしながら
『あ~わしは見送りになんぞ行かん。わしに目通りしたかったら…必ず帰ってけえ』そげんおっしゃっちょった」

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西郷「国父様…」

そして、西郷家の人々が思い思いに送り出しの言葉をかける中、隆盛は糸に言った。

「留守を頼むど」
「ご武運をお祈りしちょいもす」

こうして隆盛は糸らに見送られ出立した。

旅立つ父の背に、菊草は島唄を歌ったのだった。

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山本八重さん@会津
@aizu_sniper_yae
普通に考えて、練兵済みの士気旺盛な連中に武器を持たせて大人数で向かうに至ってもまだ「戦になるかもしれん」みたいな事を言ってるのは思考がおかしいと思う(´・ω・`)

  

2018-12-02 20:37:56


@s_abagashira
この西郷どん、いつも微笑んでるから、実はもっと深遠な考えがあるのかもって相手が勝手に思い込むんだろな たぶんなんも考えてねえぞ… 

  

2018-12-02 20:31:31

小栗さくら@歴史タレント
@oguri_sakura
西郷は親しかった桂久武宛てに、前原一誠らが蜂起した「萩の乱」を「愉快な知らせ」だと書き送っています。

それ以前の板垣退助に対する言葉からも、新政府に対し言論だけではどうにもならないと感じていたように思えます。

  

2018-12-02 20:37:21

宇宙大將軍八重
@akabesimotuke
格之助さぁ、本来は政府側の県令のはずなのにパアッっと景気づけやがって…最期を知っているだけに余計悲しい(T_T) 

  

2018-12-02 20:38:05

Watanabe
@nabe1975
月岡芳年「鹿児島暴徒出陣図」
薩軍が出陣した日、鹿児島は60年ぶりといわれる大雪が降った。

  

2018-12-02 20:38:37

あいんず
@MLZ0902
海江田の細かすぎて伝わらない国父様のモノマネ

  

2018-12-02 20:39:04

一二三
@nunonofuku123
海江田の島津久光ものまね上手い(w。
実際に島津久光はここで西南戦争には参加しなかったのは大きかった。

  

2018-12-02 20:39:11

☆るる加那☆リプ通知回復ぎみ
@rudopai_ruru
海江田さぁの国父様のモノマネで和む。

  

2018-12-02 20:39:19

晴野未子🏯歴タレ(本アカ)
@3535haruno
俊斎どんモノマネがお上手😂😂😂
最後まで癒し枠😂😂😂

  

2018-12-02 20:40:02

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
娘は、母愛加那ならば、こんな時歌うだろうと知っているのですね。母の代わりに歌う。

  

2018-12-02 20:41:20

Watanabe
@nabe1975
大久保は西郷が決起したことを知ると自ら会談するために鹿児島へ向かおうとしたが、伊藤博文らの反対により出立を断念した。

  

2018-12-02 20:42:51

たこら
@tacora1003
大久保はここで西郷を説得に鹿児島に向かって殺されたとしても、政府の未来に対して不安がなければ、後悔はなかった気がするの

  

2018-12-02 20:42:52

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
物語の経糸は、人の思いを引き寄せすぎる(そして決して解決しないまま手放す)西郷という男の、自らの空虚を知るが故の苦悩。横糸は有能な実務家である友、大久保とのねじれる愛憎。ロマンチックですよね。いろいろ足りないパーツはあったと思いますが、ブロマンスの美は一貫してた。

  

2018-12-02 20:43:27

むむたーず
@htmr46
菊草ちゃんの声を借りて、愛加那さんは吉之助を送りに来たんだ

  

2018-12-02 20:45:31

佐倉蔡
@sai_0211
西郷が無事帰ってこられないこと分かってて若者引き連れてあの感じっていうのも怖いけど、本当に帰ってこられる一蔵どんなら分かってくれるって思ってるとしてもめっちゃ怖い。どっちにしろ怖い 

  

2018-12-02 20:46:01

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西郷どん 第45話「西郷立つ」感想

かな ドラマ鑑賞アカ
@kanadorama
桐野利秋の命日に、大野拓朗さんの桐野の演技は今日もキレッキレで素晴らしかった…(涙ふく)

  

2018-12-02 20:46:05

さち鉾🦑
@koeru_sachihoko
もうこれ言うの何回目かわからないくらい言ってるけど、西郷どんの錦戸くんはいい。文句なしにいい。

  

2018-12-02 20:46:32

えあ
@its77422499
思い込みと確認不足、アイツなら分かってくれるという甘えからくる意思の伝達の手抜きによるスレ違い…😢
もう一直線…

  

2018-12-02 20:46:39

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」45回目を拝見!本日は西南戦争直前の緊迫した鹿児島情勢が描かれました。最後まで西郷を信じようとする大久保利通、その大久保に裏切られたと考える西郷、そのすれ違い、対立に悲劇の萌芽が感じられ、見ごたえがありました。

  

2018-12-02 20:47:31

町田 明広
@machi82175302
まずは私学校について、どのようなものであったかを確認しておこう。西郷は不穏な鹿児島の状況を改善し、県内士族を指導・統率するために、明治7年6月、旧鹿児島城厩跡に銃隊学校と砲隊学校を開校し、この2校を中核とする私学校を設立した。

  

2018-12-02 20:48:02

町田 明広
@machi82175302
銃隊学校(旧近衛兵・約600)は篠原国幹、砲隊学校(旧砲兵・約200)は村田新八が主宰し、また、各地に旧郷士のための136に及ぶ分校も設立された。授業は午前中のみで、軍事訓練に学課は兵学・史学が中心であったが、漢学や精神訓話もあり、討論の機会も十分に与えられた。

  

2018-12-02 20:48:24

町田 明広
@machi82175302
これは藩政時代の郷中教育をベースにしており、その対象を壮年士族にも拡大したものであった。この他、照国神社南手あたりに、士官養成のための学校で、幼年学校とも称される賞典学校が設立された。

  

2018-12-02 20:49:07

町田 明広
@machi82175302
賞典学校の生徒数は約100名で、西郷・桐野利秋・大山綱良らの賞典禄が設立資金に充てられた。学課では漢学や洋学も取り入れており、外国人教師も招聘された。賞典学校では明治8年度は3名、9年度は2名、成績優秀者をヨーロッパに留学させるなど、極めて進歩的であった。

  

2018-12-02 20:49:43

町田 明広
@machi82175302
また、吉野寺山には旧陸軍教導団生徒を収容する農学校・吉野開墾社が創設された。生徒数は約150名で、昼は耕作に従事し、夜は学問をしており、西郷もしばしば足を運んでいる。

  

2018-12-02 20:50:09

町田 明広
@machi82175302
西郷は、私学校とは一定の距離を保ち、その運営・指導には直接かかわらなかったものの、幹部や生徒の精神的な支柱となり、政府から恐れられた「西郷党」を形成することになった。今回は私学校の性格がもう一つ、分かり難かったかも。

  

2018-12-02 20:50:25

町田 明広
@machi82175302
大山県令の支持の下、私学校の経費には旧藩から県庁に引継がれた積立金が充てられており、県幹部を始め、区長・副戸長、地方行政組織や警察の要職を私学校幹部がほとんど独占した。私学校とは名ばかりで、士族独裁を県民に強いる政治機関となった。

  

2018-12-02 20:52:11

町田 明広
@machi82175302
私学校の幹部や生徒の中には、過激な論を唱える者も多数存在した。桐野などは政府打倒を唱えつつ、鹿児島士族が先頭に立って征韓を実現すべきであり、その先の清への侵略も主張するなど、軍国主義を声高に叫んだ。西郷はこうした暴論を抑制しつつ、西郷自身は政治的な言動は極力避けていた。

  

2018-12-02 20:52:39

町田 明広
@machi82175302
西郷は日々、吉野開墾社などで農耕に励み、県内各地で狩猟を楽しむなど、一見平穏な日々を送っており、これは西郷の本来の願望の実現でもあるが、鹿児島に潜入している密偵の目をごまかす側面もあったかも知れない。

  

2018-12-02 20:53:20

町田 明広
@machi82175302
西郷は私学校とは一線を画し、基本的に幹部に一任していたが、その幹部が桐野のような反政府・侵略主義者であったので、「西郷王国」はその坩堝と化した。しかし、西郷はそうした傾向を抑制はしたものの、否定はせず、結果としてその傾向を助長させたことは否めない。

  

2018-12-02 20:53:36

町田 明広
@machi82175302
強大な軍事力を維持し、県内を牛耳る私学校を基幹とする「西郷王国」は、カリスマ的存在の西郷の許で強く団結し、しかも、県外にも影響を与え始めた。政府の政策に批判的な各地の士族から、期待をかけられる大きな存在になっていたのだ。

  

2018-12-02 20:54:46

町田 明広
@machi82175302
明治政府にとって、「西郷王国」は脅威でしかなく、木戸孝允から鹿児島を放置していると非難され続けた大久保利通にとっては、出身地だけにかえって、もう座視できない緊急の課題となってしまった。

  

2018-12-02 20:55:03

町田 明広
@machi82175302
明治8年(1875)2月、大久保は大阪会議を開いて、木戸孝允・板垣退助の入閣を実現し、薩長土の提携を図って、政府基盤の底上げを実現し、残っている条約改正以外の外交問題の対応に取りかかった。5月には樺太・千島交換条約によって、懸案だ…

  

2018-12-02 20:56:38

町田 明広
@machi82175302
明治8年9月、江華島事件を起こして朝鮮問題の解決を急ぎ、軍艦を使った示威行動によって、朝鮮を刺激して武力衝突を誘導した。翌9年(1876)2月、西郷の腹心であった黒田清隆が特命全権大使として乗り込み、日本が初めて外国に強いた不平等条約である日朝修好条規が締結された。

  

2018-12-02 20:56:53

町田 明広
@machi82175302
明治6年政変からわずか2年後、大久保政権は自らの手で征韓の一歩を踏み出し、朝鮮との国交が樹立された。この一報が鹿児島に届くと、西郷は激しく政府を非難した。このあたり、大久保との対立を軸に置くのであれば、ドラマでも見てみたかったかも。

  

2018-12-02 20:58:21

町田 明広
@machi82175302
西郷は篠原国幹宛の書簡(明治8年10月8日)の中で、「彼を蔑視し、発砲いたし候ゆえ、応砲におよび候と申すものにては、是までの交誼土実に天理において恥すべき所為」と公理・公道に反するとして、怒りをぶちまけている。

  

2018-12-02 20:58:57

町田 明広
@machi82175302
こうして、外交問題の直近の憂いを払拭した政府は、明治9年(1876)3月に廃刀令、8月に金禄公債証書発行条例を公布するなど、士族の特権廃止・縮小に踏み切った。こうした政府の弾圧政策に対し、不平士族の反乱が頻発する。

  

2018-12-02 20:59:57

町田 明広
@machi82175302
明治9年(1876)10月24日、太田黒伴雄を首領とする神風連の乱が熊本で起こった。政府の欧化政策・廃刀今に反発して百数十名が蹶起して県庁・熊本鎮台を襲撃した。これに呼応して26日に秋月の乱、27日に萩の乱が立て続けに起こった。

  

2018-12-02 21:00:45

町田 明広
@machi82175302
特に萩の乱は、西郷と同様に下野した元参議前原一誠が首謀者で、木戸孝允の御膝元の山口県で勃発したため、少なからぬ動揺を政府に与えた。しかし、各反乱は連携もなく計画性にも乏しかったため、いずれの乱も短期間で鎮圧され、前原も捕縛されて刑死した。

  

2018-12-02 21:01:32

町田 明広
@machi82175302
また、10月31日には思案橋事件があり、関東での士族蜂起が未然に防がれている。こうした情勢は、私学校関係者にも大きな刺激を与え、政府打倒の挙兵をすべきであるとの暴論が頻りに唱えられ、西郷や幹部がかろうじて暴発を押さえている有様となった。

  

2018-12-02 21:02:20

町田 明広
@machi82175302
村田新八はこの様子を、四斗樽に水を盛り腐った縄で括っているようなものと、一触即発の状況を語っている。かくいう村田も、機会が来れば間髪入れずに蹶起して政府を改造し、西郷を首班とする内閣を作ることが使命であると述べている。

  

2018-12-02 21:03:44

町田 明広
@machi82175302
幹部の中で最も冷静沈着で、ポスト大久保利通と言われた村田新八であっても、この程度のプランは持ち合わせていたのだ。こうした中で、大久保は一戦に持ち込んでも西郷と雌雄を決する段階に至ったと判断し、鹿児島の探索、そして西郷党の離間策や挙兵を促す行為に出る。

  

2018-12-02 21:05:32

町田 明広
@machi82175302
大久保利通は大警視川路利良にこれら命じ、明治9年12月下旬には中原尚雄ら鹿児島出身の警部・巡査ら20人余りを休暇帰省として潜入させた。私学校生徒は彼らの動きを逐次監視し、火薬庫襲撃後に相次いで捕え、激しい拷問を加えた。

  

2018-12-02 21:06:59

町田 明広
@machi82175302
そして、中原が西郷暗殺の密命を川路利良から受けていたと自白したため、私学校生徒の怒りは沸点に到達し、もはや幹部でも手の施しようがなかった。なお、西郷を「視察」するためだったのか、「刺殺」するためだったのか、中原は後年、「視察」のためと述べている。

  

2018-12-02 21:07:35

町田 明広
@machi82175302
西郷は「刺殺」に傾いていた感があるが、果たして真相はいかがであろうか。さて、明治10年(1877)1月、いよいよ政府は三菱の汽船赤龍丸を鹿児島に派遣して、備蓄されている火薬・銃弾の搬出を図った。

  

2018-12-02 21:07:54

町田 明広
@machi82175302
そもそも、鹿児島には海軍鹿児島造船所や滝之上・敷根火薬製造所など日本最大級で最新鋭の武器・火薬工場があった。海軍が使用する弾薬はすべて鹿児島製であり、大量の武器弾薬が生産・備蓄されていて、以前から政府の頭痛の種であった。

  

2018-12-02 21:10:07

町田 明広
@machi82175302
政府は、その武器弾薬が西郷党の手に渡るのを恐れ、早期の引き上げを以前から画策していたが、この段階での実行となった。大久保利通はもう我慢できずに、強硬手段に打って出たのだ。このあたりはドラマでは中原の言葉の中にあっただけで、描写はなかった。

  

2018-12-02 21:10:20

町田 明広
@machi82175302
大久保利通が鹿児島県との取り決めを無視し、夜間にこっそり搬出させたことを知った私学校生徒の血気にはやる一部は、西郷暗殺を企図する密偵問題と絡めて激昂し、とうとう一線を越えてしまった。

  

2018-12-02 21:12:48

町田 明広
@machi82175302
明治10年1月29日に草牟田の陸軍火薬庫を、同31日から2月2日にかけて海軍鹿児島造船所を襲撃して、大量の武器弾薬を奪い去る暴挙に出たのだ。大久保利通の挑発にまんまと乗ってしまったが、西郷党の暴発はもはや時間の問題でもあった。

  

2018-12-02 21:13:03

町田 明広
@machi82175302
小根古に狩猟に出かけていた西郷は2月1日、末弟の小兵衛から襲撃を知らされて「しまった」とつぶやき鹿児島に急行した。3日、武村の自宅に着いた西郷は参集していた私学校生徒たちに向かって、「おはんたちは、何たる事をしでかしたか」と大声で…

  

2018-12-02 21:15:18

町田 明広
@machi82175302
2月5・6日の両日、西郷を交えて幹部会議があり、今後の方針を議した。西郷による率兵上京が大勢を占める中で、少数意見も存在した。永山弥一郎は西郷・桐野利秋・篠原国幹のみ上京し、西郷暗殺指令について、尋問すべきとした。

  

2018-12-02 21:15:38

町田 明広
@machi82175302
村田三介は、自らが中原を護送して上京し、政府に正邪の裁決を迫るとした。野村忍介は、自らが600人の壮士を率いて若狭小浜に上陸し、京都の天皇の許に至り、西郷招致を奏請するといった意見であったが、いずれも成算に乏しく、顧みられなかった。

  

2018-12-02 21:15:58

町田 明広
@machi82175302
その中で、西郷小兵衛は兵を三手に分け、一手は海路長崎への進軍という妥当な戦略を主張したが、桐野の平押しに押すという案が大勢を占めた。最後に決済を求められた西郷は、「おいの体は差し上げもそ」とだけ述べた。これですべてが決まり、西南戦争へ突入する。

  

2018-12-02 21:16:39

町田 明広
@machi82175302
2月12日、西郷・桐野・篠原は陸軍大将・陸軍少将として連名で、届け出を出しことになったが、準備不足の感は否めない。なお、挙兵直前の「作戦会議」は私学校幹部の個性が表出する重要な場面。個人的には、このあたり見たかった。

  

2018-12-02 21:16:54

町田 明広
@machi82175302
大山県令に対し、「拙者どもこと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居候処、今般政府へ尋問の筋これ有り、不日に当地発程致代間、お含みのため此段届け出候、もっとも旧兵隊の者ども随行、多人数出立致候間、人民動揺致さざるよう、一層御保護御依頼に及び候也」との屈出を出した。

  

2018-12-02 21:20:47

町田 明広
@machi82175302
これまでの士族反乱では、挙兵の目的を天下に訴える文書を用意していたが、西郷はこれだけしか発しなかった。なお。「尋問」とは、西郷暗殺指令について、大久保利通・大警視川路利良に問い質すことである。

  

2018-12-02 21:21:02

町田 明広
@machi82175302
西郷は、自分への暗殺嫌疑で挙兵することに、大義面分が乏しいと考え、実際には気が進まなかったらしい。しかし、明治以降の西郷は、部下に任せるが責任は自分が取るとの方針を堅持しており、積極的に挙兵を肯定はしなかったが、否定もあえてしなかったに過ぎない。

  

2018-12-02 21:22:59

町田 明広
@machi82175302
こうした背景から、西郷は趣旨書の類は用意しておらず、また幹部と議論した形跡さえもない。しかも、西郷には戦闘にすら及ばないという目論見があったのではないかとさえ思える節がある。

  

2018-12-02 21:23:18

町田 明広
@machi82175302
西郷は陸軍大将であり、国軍のトップである。しかも、西郷は明治維新における最大の功労者であり、その西郷に弓を引く軍隊など現れないと踏んだ。川村純義や樺山資紀などの旧薩摩藩出身の軍幹部は、こぞって西郷を迎え入れるとさえ本気で信じていたようだ。

  

2018-12-02 21:23:41

町田 明広
@machi82175302
西郷軍の兵力は、出発当初で約13,000人もおり、大砲隊まで備えた本格的な軍隊であり、戊辰戦争では勇猛果敢であると恐れられ、民衆からなる鎮台兵を蔑視していた。仮に戦闘になっても、簡単に蹴散らせると油断していた。

  

2018-12-02 21:23:55

町田 明広
@machi82175302
そもそも、西郷は下野して3年余りの間、鹿児島から一歩も出ようとはせず、狩猟と農耕に明け暮れていた。時代の進歩からは全く取り残されており、しかも、情報収集を怠っていた。当然、旧態依然とした情勢判断のままであり、西郷自身が「西郷神話」を一番信じていたのかも知れない。

  

2018-12-02 21:25:27

町田 明広
@machi82175302
西郷は、戦闘せずに上京が可能と考えていたのだ。余りの無計画性、準備不足はそうした驕りの表れだろう。勝負は戦う前から決していたのかも知れない。最大にして最後の内戦、西南戦争の幕が切って落とされた。

  

2018-12-02 21:25:43

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