この記事は、
西郷どん 第47話「敬天愛人」感想・実況の4ページ目です。

※これまでの感想・実況まとめは、コチラ → 西郷どん感想まとめ

総攻撃開始

明治10年9月24日、朝の4時。ついにその時がきた。

政府軍が総攻撃を開始し、西郷軍と激しくぶつかった。

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桂久武、村田新八、市来宗介みな戦死した。そして、西郷隆盛も腹に銃弾を受け倒れた。

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西郷隆盛の死をもって西南戦争は集結した。


西郷家には、吉之助が可愛がっていた2匹の犬が帰ってきた。

糸「ああ…」
「ツン…ゴジャ」

「よう戻ってきもしたな」

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東京の大久保は、満寿に吉之助の死を伝えると、泣き崩れた。

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徳川慶喜とふきは新聞で隆盛の死を知り惜しんだ。そして、勝海舟、愛加那・・・縁のある人々が西郷の死を悼んだのだった。

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後日、義足をつけた菊次郎が家に戻ると、糸は家族の者たちを集めた。

「みんなに聞いてほしかこっがあいもす」
「お父上から最後にお預かりした言葉です」

『おいが死んだことでおかしいことはおかしいと言えんようになるちおはんらには決して思わんでほしか』
『こいからの国づくりはおはんらに託されちょっ』
『逆賊西郷隆盛の子であることを恥じることはあいもはん』

この言葉に「はい!父上は西郷星になられたちみんな拝んじょいもす」
息子がそう言うと、糸はやんわりと否定した。

「旦那さぁは人に見上げられたり拝まれたりして喜ぶような御方ではあいもはん」
「いっつも低か所で弱か者に寄り添ってあちこち走り回っちょった」

「誰よりも心の熱くふっとかお人でした」

西郷が死んだ翌年。大久保利通もまた赤坂仮御所へ向かう途中に暗殺された。

大久保の手には、隆盛からの書状が握られていたという。

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平塚為広@垂井/関ケ原組。
@nishimino_clan
悲劇的な最期しか予見できない戦に向かうに当たり、第三者からは憐れみの目しか向けないだろうが、当事者からすると他に選択肢がないゆえか、かえって清々しく、事にあたれる。そんな気がする。

  

2018-12-16 20:23:27

かねさだ@ひさみちゅ党員
@skht7312
この「吉之助の命は助ける」って、月照の時と同じだよ。吉之助の命だけは助けたい一蔵。その唯一の願いだけは絶対にきけない吉之助。ずっとこれをグルグルしてるんだ。

  

2018-12-16 20:25:08

大島 美津子@🐰🐰🐰
@oh_Dhg3ce5qa
山縣有朋の背後に龍の絵、2016年『真田丸』で上杉景勝を支えた直江兼続を演じた村上さんへのスタッフからのちょっとした遊び心でしょうか?
思わずニヤリとしました😊

  

2018-12-16 20:26:48

くろま
@kuroma_9
西郷の死を聞いた大久保が涙を溜めて歩き回って鴨居に頭をぶつけるエピはないのか

  

2018-12-16 20:26:59

u
@urako0924
スピーチ直前にあんなこと聞かされちゃあなぁ…

  

2018-12-16 20:27:30

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
私今の首相そんなにあれなんですが、でもこの一蔵さんの博覧会プレゼン見てると、こういうとき政府のトップに求められるのは心を殺して笑顔でマリオのコスプレできるだけのメンタル力だと思うんですよ。というか制作さん、大久保利通を舐めとったらあかんぞ(笑)

  

2018-12-16 20:29:45


@s_abagashira
すごいな 自分が死ぬことで斉彬の理想の世が作れるのか 

  

2018-12-16 20:31:11

名前はまだ決まらない
@namaehamada_nai
これが15年前の大河ドラマだったら、私たちがそう信じてきた西郷隆盛像をそのままに描いてくれてありがとう、と思っていたと感じます。しかしもうそんな古いドラマを公共放送でゴールデンタイムにやる時代ではない気が…

  

2018-12-16 20:36:44

山本八重さん@会津
@aizu_sniper_yae
死なないで別府晋介
あんたが先に死んだら誰が西郷を介錯するの?

  

2018-12-16 20:38:26

一二三
@nunonofuku123
西郷隆盛の最後よく桐野利秋が介錯したと勘違いされるが、実際は別府晋介が介錯して首を斬ったといわれる。被弾した西郷隆盛は別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」といい、別府が「ごめんなったもんし」と叫んで西郷の首をはねたと言われる。享年51。

  

2018-12-16 20:38:02

酒上小琴【サケノウエノコゴト】
@raizou5th
桐野利秋は伊達者として知られ、任官時にはフランス製の軍服に金拵えの軍刀、金時計を提げて、フランス製の香水を付けていた。西南戦争が終結する城山で銃弾に倒れたときも、フランスの香水が薫っていたという。しかし、銘柄までは伝わっていない。

  

2018-12-16 20:38:39

おいでよ関門
@ei__yu
西郷隆盛は晩年、フィラリアによる陰嚢水腫に罹患しており、睾丸がカボチャ大まで肥大していました。
西南戦争の終焉、西郷の遺体を検死した政府軍の軍医はこのことを知らず、巨大な睾丸に驚いたと伝わっています。現代医学ではこれを睾丸無知と呼んでいます。

  

2018-12-16 20:40:00

藤堂高虎(キャラ迷走中の方)
@takatora_tsu
ヒー様、逃げるは恥だが役に立つ論を説くw

  

2018-12-16 20:42:26

わた@SSSS.呉ッドマン
@them_isto_cres
「なんで逃げなかったんだ。俺みたいに逃げればよかったんだ」
こ の 上 な い 説 得 力

  

2018-12-16 20:43:06

一二三
@nunonofuku123
西郷星は1877明治10年9月3日に火星が最接近し、9月24日西郷隆盛死去したので「西郷星」と呼ばれた。
そのときに、土星も接近していたので、桐野利秋も同日なくなったので「桐野星」とも言われた。

  

2018-12-16 20:43:15

twitterより

榎本武揚
@enomotokamajiro
あれ、自害じゃなかったか?これじゃあアニメだったら「生きてましたー」の展開だぞ?

  

2018-12-16 20:44:20

一二三
@nunonofuku123
大久保利通は石川県士族の島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、島根県士族浅井寿篤6名に紀尾井坂の変で暗殺される。
悲しいかな、大久保利通殺害動機の一番の理由は「征韓論を大久保利通が退けたから」である。

  

2018-12-16 20:50:16

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西郷どん 第47話「敬天愛人」感想

一二三
@nunonofuku123
西郷糸など、西郷家の親族は西南戦争以後みな東京の西郷従道家に連れ出される。
これは、西郷家の人間が鹿児島にいるとまた戦争する可能性があったからとも。
西郷家の人間が鹿児島にいなくなったので、墓の管理等は糸の家族が行っていたとか。

  

2018-12-16 20:45:45

越前きんもくせい
@echizen_no_kami
島津久光、最後までいい味出してたな。なおこの西南戦争に際してその去就が注目された久光は、政府軍・西郷軍どちらにも与せず、また西郷軍から軍資金の提供願いに対し、島津家の家令でかつて石川県令だった内田政風は断固拒絶したという。

  

2018-12-16 20:46:05

晴野未子🏯歴タレ(本アカ)
@3535haruno
初代将軍「逃げるは恥だが役に立つ」
2代将軍「逃げるは恥だが役に立つ」
15代将軍「逃げるは恥だが役に立つ」

  

2018-12-16 20:47:07

一二三
@nunonofuku123
西郷隆盛最後の言葉「(別府)晋介どん ここらでよか」を「ここらでよか」に変えたのか。

  

2018-12-16 20:56:11

町田 明広
@machi82175302
「西郷どん」最終回を拝見!村田新八のアコーディオンの音色を聞きながら、涙腺崩壊は何とか免れたものの、落涙は防げなかった。。熊吉を含めた西郷家のそれぞれの生きざまに打たれた。大久保瑛太の演技にも圧倒された。久光の所作もよかった!

  

2018-12-16 20:46:34

町田 明広
@machi82175302
今日は西南戦争。まずは、そこに至る経緯から振り返っておこう。政府は明治9年(1876)3月に廃刀令、8月に金禄公債証書発行条例を公布するなど、士族の特権廃止・縮小に踏み切った。こうした政府の弾圧政策に対し、不平士族の反乱が頻発する。

  

2018-12-16 20:47:15

町田 明広
@machi82175302
明治9年(1876)10月24日、太田黒伴雄を首領とする神風連の乱が熊本で起こった。政府の欧化政策・廃刀今に反発して百数十名が蹶起して県庁・熊本鎮台を襲撃した。これに呼応して26日に秋月の乱、27日に萩の乱が立て続けに起こった。

  

2018-12-16 20:47:42

町田 明広
@machi82175302
しかし、各反乱は連携もなく計画性にも乏しかったため、いずれの乱も短期間で鎮圧され、萩の乱では前原一誠も捕縛されて刑死した。また、10月31日には思案橋事件があり、関東での士族蜂起が未然に防がれている。

  

2018-12-16 20:47:58

町田 明広
@machi82175302
私学校関係者にも大きな刺激を与え、政府打倒の挙兵をすべきであるとの暴論が頻りに唱えられ、西郷や幹部がかろうじて暴発を押さえている有様となった。こうした中で、大久保は一戦に持ち込んでも雌雄を決する段階に至ったと判断し、鹿児島の探索、西郷党の離間策や挙兵を促す行為に出る。

  

2018-12-16 20:48:55

町田 明広
@machi82175302
大久保利通は大警視川路利良にこれら命じ、明治9年12月下旬には中原尚雄ら鹿児島出身の警部・巡査ら20人余りを休暇帰省として潜入させた。私学校生徒は彼らの動きを逐次監視し、火薬庫襲撃後に相次いで捕え、激しい拷問を加えた。

  

2018-12-16 20:49:28

町田 明広
@machi82175302
そして、中原が西郷暗殺の密命を川路利良から受けていたと自白したため、私学校生徒の怒りは沸点に到達し、もはや幹部でも手の施しようがなかった。なお、西郷を「視察」するためだったのか、「刺殺」するためだったのか、中原は後年、「視察」のためと述べている。

  

2018-12-16 20:49:46

町田 明広
@machi82175302
明治10年(1877)1月、いよいよ政府は三菱の汽船赤龍丸を鹿児島に派遣して、備蓄されている火薬・銃弾の搬出を図った。そもそも、鹿児島には海軍鹿児島造船所や滝之上・敷根火薬製造所など日本最大級で最新鋭の武器・火薬工場があった。

  

2018-12-16 20:56:58

町田 明広
@machi82175302
海軍が使用する弾薬はすべて鹿児島製で、大量の武器弾薬が生産・備蓄され、以前から政府の頭痛の種であった。政府はその武器弾薬が西郷党の手に渡るのを恐れ、早期の引き上げを以前から画策していたが、この段階での実行となった。大久保利通はもう我慢できずに、強硬手段に打って出たのだ。

  

2018-12-16 20:57:48

町田 明広
@machi82175302
大久保利通が鹿児島県との取り決めを無視し、夜間にこっそり搬出させたことを知った私学校生徒の血気にはやる一部は、西郷暗殺を企図する密偵問題と絡めて激昂し、とうとう一線を越えてしまった。

  

2018-12-16 20:58:14

町田 明広
@machi82175302
明治10年1月29日に草牟田の陸軍火薬庫を、同31日から2月2日にかけて海軍鹿児島造船所を襲撃して、大量の武器弾薬を奪い去る暴挙に出たのだ。大久保利通の挑発にまんまと乗ってしまったが、西郷党の暴発はもはや時間の問題でもあった。

  

2018-12-16 20:59:54

町田 明広
@machi82175302
小根古に狩猟に出かけていた西郷は、2月1日、末弟の小兵衛から襲撃を知らされて「しまった」とつぶやき、鹿児島に急行した。3日、武村の自宅に着いた西郷は、参集していた私学校生徒たちに向かって、「おはんたちは、何たる事をしでかしたか」と大声で怒鳴りつけた。

  

2018-12-16 21:00:11

町田 明広
@machi82175302
2月5・6日の両日、西郷を交えて幹部会議があり、今後の方針を議した。西郷による率兵上京が大勢を占める中で、少数意見も存在した。永山弥一郎は西郷・桐野利秋・篠原国幹のみ上京し、西郷暗殺指令について、尋問すべきとした。

  

2018-12-16 21:00:29

町田 明広
@machi82175302
村田三介は、自らが中原を護送して上京し、政府に正邪の裁決を迫るとした。野村忍介は、自らが600人の壮士を率いて若狭小浜に上陸し、京都の天皇の許に至り、西郷招致を奏請するといった意見であったが、いずれも成算に乏しく、顧みられなかった。

  

2018-12-16 21:00:47

町田 明広
@machi82175302
その中で、西郷小兵衛は兵を三手に分け、一手は海路長崎への進軍という妥当な戦略を主張したが、桐野の平押しに押すという案が大勢を占めた。最後に決済を求められた西郷は、「おいの体は差し上げもそ」とだけ述べた。これですべてが決まり、西南戦争へ突入する。

  

2018-12-16 21:01:10

町田 明広
@machi82175302
大山県令に対し、「拙者どもこと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居候処、今般政府へ尋問の筋これ有り、不日に当地発程致代間、お含みのため此段届け出候、もっとも旧兵隊の者ども随行、多人数出立致候間、人民動揺致さざるよう、一層御保護御依頼に及び候也」との屈出を出した。

  

2018-12-16 21:01:38

町田 明広
@machi82175302
2月12日、西郷・桐野・篠原は陸軍大将・陸軍少将として連名で、この届け出を出したが、準備不足の感は否めない。これまでの士族反乱では、挙兵の目的を天下に訴える文書を用意していたが、西郷はこれだけしか発しなかった。

  

2018-12-16 21:01:54

町田 明広
@machi82175302
なお、「尋問」とは、西郷暗殺指令について、大久保利通・大警視川路利良に問い質すことである。西郷は、自分への暗殺嫌疑で挙兵することに、大義面分が乏しいと考え、実際には気が進まなかったらしい。

  

2018-12-16 21:02:13

町田 明広
@machi82175302
しかし、明治以降の西郷は、部下に任せるが責任は自分が取るとの方針を堅持しており、積極的に挙兵を肯定はしなかったが、否定もあえてしなかったに過ぎない。こうした背景から、西郷は趣旨書の類は用意しておらず、また幹部と議論した形跡さえもない。

  

2018-12-16 21:02:30

町田 明広
@machi82175302
しかも、西郷には戦闘にすら及ばないという目論見があったのではないかとさえ思える節がある。西郷は陸軍大将であり、国軍のトップである。しかも、西郷は明治維新における最大の功労者であり、その西郷に弓を引く軍隊など現れないと踏んだ。

  

2018-12-16 21:03:10

町田 明広
@machi82175302
川村純義や樺山資紀などの旧薩摩藩出身の軍幹部は、こぞって西郷を迎え入れるとさえ本気で信じていたようだ。西郷軍の兵力は、出発当初で約13,000人もおり、大砲隊まで備えた本格的な軍隊であり、戊辰戦争では勇猛果敢であると恐れられ、民衆からなる鎮台兵を蔑視していた。

  

2018-12-16 21:03:32

町田 明広
@machi82175302
このあたり、西郷の「驕り」と指摘する研究者も多い。仮に戦闘になっても、簡単に蹴散らせると油断していた。そもそも、西郷は下野して3年余りの間、鹿児島から一歩も出ようとはせず、狩猟と農耕に明け暮れていた。

  

2018-12-16 21:04:04

町田 明広
@machi82175302
西郷は時代の進歩からは全く取り残されており、しかも、情報収集を怠っていた。当然、旧態依然とした情勢判断のままであり、西郷自身が「西郷神話」を一番信じていたのかも知れない。

  

2018-12-16 21:04:43

町田 明広
@machi82175302
西郷は、戦闘せずに上京が可能と考えていたのだ。余りの無計画性、準備不足はそうした驕りの表れだろう。勝負は戦う前から決していたのかも知れない。最大にして最後の内戦、西南戦争の幕が切って落とされた。

  

2018-12-16 21:05:04

町田 明広
@machi82175302
明治10年(1877)2月15日、西郷軍の先発隊が熊本城を目指して進軍を開始し、17日には西郷も桐野利秋らと熊本へと向かった。西郷軍は総勢13,000名に及ぶ強兵の大軍であった。

  

2018-12-16 21:06:59

町田 明広
@machi82175302
西郷軍はさしたる戦略も立てず、徴兵による政府軍を侮っており、熊本城は無血開城されるものと高をくくっていた。しかし、2月22日に熊本城下に到着すると、意外にも臨戦態勢にあった。

  

2018-12-16 21:07:18

町田 明広
@machi82175302
そのため、軽く突破しようと考え、攻撃態勢が整うのも待たず、さらに何ら作戦も立てないまま、遮二無二熊本城を攻め始めた。しかし、なめてかかった鎮台兵の激しい抵抗を受け、3日間にわたる戦闘でも落城せず、逆に西郷軍は大損害を受けてしまった。

  

2018-12-16 21:07:36

町田 明広
@machi82175302
緒戦でつまずいた西郷軍は、押さえの兵で包囲して兵糧攻めに切り替え、主力は北上して南下する政府軍を迎え撃つことになった。 これに対し、政府は西郷党の動向を逐次把握しており、2月10日には近衛兵および東京・大阪鎮台に出征の準備を命じた。

  

2018-12-16 21:10:59

町田 明広
@machi82175302
また、熊本鎮台に対しては西郷軍の襲来は時間の問題として、防衛体制の強化を命じており、着々と籠城準備を施していた。2月19日には征討令が出され、有栖川宮熾仁親王が総督、陸軍中将山県有朋と海軍中将川村純義が参軍となった。

  

2018-12-16 21:11:52

町田 明広
@machi82175302
2月20日には第一・第二旅団が神戸を出発、熊本城攻めが始まった22日には博多に上陸した。そして、既に熊本城を目指して進軍していた乃木希典が率いる小倉14連隊の後を追って南下した。西郷軍の無策に対し、政府軍の用意周到ぶりが際立ち、この側面からも最初から勝負ありの様相であったのだ。

  

2018-12-16 21:12:55

町田 明広
@machi82175302
西郷の虚をついて、3月7日には勅使柳原前光、護衛として陸軍中将黒田清隆が3,500の兵とともに、海路で鹿児島に到着した。柳原は久光と会見し、軽挙妄動を戒めて政府への恭順を求め、また、火薬製造所を破壊し武器弾薬を押収した。

  

2018-12-16 21:13:38

町田 明広
@machi82175302
そして、大山綱良県令を捕らえ連行し、9月30日に長崎において斬首した。なお、西郷軍は軍艦を持っていなかったため、海上からの作戦にはなす術がなく、その後の戦局においても、軍艦の有無が多大な影響を与えた。

  

2018-12-16 21:14:06

町田 明広
@machi82175302
戦況は西郷軍の奮戦にもかかわらず、政府軍の優位で推移した。熊本城から北上した西郷軍と博多・小倉から南下した政府軍とが、植木・高瀬・田原坂で激しい攻防を繰り返した。次々に援軍が増強される政府軍に対し、西郷軍は損害を補う余裕は既になく弾薬も欠乏して十分な戦闘は難しくなった。

  

2018-12-16 21:16:57

町田 明広
@machi82175302
しかも、篠原国幹・西郷小兵衛といった幹部の戦死も相次ぐなどし、3月20日には、とうとう田原坂を放棄する事態となった。また、前日の十九日、高島鞆之助が率いる約四千の別動隊が日奈久に上陸し、西郷軍の背後を衝いて、熊本城を目指して北上を開始した。

  

2018-12-16 21:17:44

町田 明広
@machi82175302
西郷軍は戦略の拙さもあいまって各地で敗退し、4月14日には熊本城の包囲を解いた。20日の関ヶ原の戦い以来の大開戦と称される、城東会戦でも西郷軍は敗北し、険しい九州山地を越えて南下し、人吉に本営を移した。

  

2018-12-16 21:18:18

町田 明広
@machi82175302
そして、部隊の再編成を行うなど、南九州一円を拠点として体制を建て直し、再起を図ることにした。 俄然優位に立った政府軍は、包囲網をじわりじわり狭めながら人吉に迫るとともに、一方では、第四旅団・別働第一旅団などを鹿児島に上陸させて占領を試みた。

  

2018-12-16 21:18:35

町田 明広
@machi82175302
これを知った西郷は、別府晋介の一隊を急派して鹿児島の奪還を図ったものの、6月には政府軍に撃退された。この間、激しい市街戦が続き、鹿児島城下の大半が焼失、多くの貴重な文物が灰燼に帰した。

  

2018-12-16 21:21:28

町田 明広
@machi82175302
6月1日には人吉も陥落し西郷軍は宮崎方面に敗走したが、ここでも持ち堪えることはできず、都城も7月24日に落ちたため西郷軍の敗北は決定的となった。8月15日、延岡を奪還するため和田越で最期の大反撃を試みた。西郷は始めて前線に出て自ら督戦したものの、善戦及ばず、長井方面に敗走した。

  

2018-12-16 21:22:08

町田 明広
@machi82175302
この戦いの最中、西郷は「日本はもう大丈夫」とつぶやき、あたかも弾に当たりたがるようにその場を離れず、周囲の者に担がれて戦場を後にしている。西郷の目には、士族亡き後も国家の防衛は鎮台兵に任せられると映ったのだろう。

  

2018-12-16 21:24:31

町田 明広
@machi82175302
6月16日、西郷は全軍に解散を命じ、西郷軍の大半はここで投降し、残った者は私学校関係者を中心とする旧薩摩士族、600名ほどであった。西郷は、陸軍大将の軍服や中原尚雄の供述書などを自ら焼却し、負傷していた長男菊次郎を、従僕で最後まで付き従った熊吉に委ねた。

  

2018-12-16 21:24:49

町田 明広
@machi82175302
政府軍は西郷軍の降参・撃破は時間の問題と判断して油断したため、西郷軍はその隙を突いて、可愛岳をよじ登って包囲網を突破した。そして、険しい九州山地を踏破して一路南下し、9月1日に鹿児島に突入、一時は私学校や県庁を押さえて城山に入った。

  

2018-12-16 21:26:22

町田 明広
@machi82175302
この期に及んで、手負いで少数となった西郷軍がなせる業ではない。最後の余力を振り絞って、故郷に戻ったのだ。その後、城山に籠った西郷軍は、わずか372名であり、9月24日早朝、政府軍の最後の総攻撃を迎え撃った。西郷も桐野や別府・村田ら幹部を従え、死に場所を求めた突撃を敢行した

  

2018-12-16 21:26:50

町田 明広
@machi82175302
岩崎から500メートルほど下ったあたりで、西郷は股と脇腹に弾を受け、別府晋介に首を刎ねさせたとされるが、別府ではなく、桐野であったとの目撃談もある。その他幹部も銃弾に倒れ、西郷と運命を共にした。戦いはわずか数時間で、午前9時頃には西郷軍の壊滅によって終了した。

  

2018-12-16 21:28:16

町田 明広
@machi82175302
今回の西郷の最後の演出、初めて見た展開だった。いろいろ意図があると思うので、いずれお聞きしてみたい。

  

2018-12-16 21:29:21

町田 明広
@machi82175302
ところで、明治10年に火星の大接近があったが、驚いた庶民は西南戦争に引き付け、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」と実しやかに噂され、何種類もの錦絵に描かれブームとなった。当時から西郷人気が確認できる事象である。

  

2018-12-16 21:29:40

町田 明広
@machi82175302
西南戦争は、西郷に大義がなかったため、全国の不平士族を糾合できず局地戦に止まった。また、西郷軍には甘い見通ししかなく、戦略にも乏しく、少ない勝機も逸してしまった。にも拘らず、これだけ長期にわたって持ち堪えたことは脅威であり、最後の武士に相応しい偉大なスピリッツを感じる。

  

2018-12-16 21:31:54

町田 明広
@machi82175302
西南戦争によって、武士の時代は完全なる終えんを迎えた。皮肉にも、近代の扉をこじ開け、武士を支配者から引きずり降ろした西郷が、最後の抵抗をする武士を道連れにしたのだ。日本は真の意味での近代がここを起点にして始まり、民衆を犠牲にした天皇制官僚国家が本格的にスタートする。

  

2018-12-16 21:33:53

町田 明広
@machi82175302
死後の西郷は、官位を剥奪され国賊となったが、反政府のシンボルとされ、生存説がまことしやかに喧伝された。明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布にあたり、復権して正三位が追贈され、国家の英雄とされていく。

  

2018-12-16 21:34:13

町田 明広
@machi82175302
西郷の革命家としての偉大な足跡に、西南戦争の悲劇性が加わり、上野の銅像に代表される見た目の愛嬌さもあって、歴史上のスーパースターに名を連ねた。そして今も、それは変わらない。

  

2018-12-16 21:36:58

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